「第四次対仏大同盟」の版間の差分

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== 同盟 ==
1805年12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]に勝利したナポレオンは、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]を[[第三次対仏大同盟]]から脱落させた。しかし、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[スウェーデン王国|スウェーデン]]は依然として同盟を維持していた。1806年7月、ナポレオンは[[ライン同盟]]を結成、これによってフランスの覇権は中部ドイツまで及ぶこととなった。領域を接する[[プロイセン王国|プロイセン]]は危機感を抱き、7月にロシアと同盟を結んだ。イギリスなども含む第四次対仏大同盟は10月6日に成立した。
 
第四次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。
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* [[スウェーデン王国]]
 
== ドイツ・ポーランド戦役(1806- 1807年) ==
[[画像:Charles Meynier - Napoleon in Berlin.png|thumb|right|300px|ナポレオンのベルリンへの入城]]
 
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10月9日、プロイセン軍はフランスへ宣戦布告し、15万の兵力をもって[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]へ侵攻した。ナポレオンは直ちに20万の兵力をもって[[バイエルン州|バイエルン]]から[[ザクセン州|ザクセン]]方面へ向けて進撃。10月10日、[[ザールフェルトの戦い]]で[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]軍団がプロイセン軍先鋒のルイ・フェルディナント親王を戦死させた。
 
プロイセン軍本体も、10月14日の[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]で壊滅的打撃を受けた。[[イェーナ|イエナ]]方面ではナポレオン率いるフランス軍主力がプロイセン軍の後衛部隊を撃破。[[アウエルシュタット]]方面ではフリードリヒ・ヴィルヘルム3世と[[カール2世ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ブラウンシュヴァイク公]]に率いられたプロイセン軍主力が、2倍の兵力をもって[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]軍団に攻撃をかけるが撃退された。
 
フランス軍は敗走するプロイセン軍を追撃し、10月25日、プロイセンの首都[[ベルリン]]を制圧。10月27日にナポレオンもベルリンへ入城した。開戦からわずか19日後の出来事であった。[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王2世]](大王)の墓所を訪れたナポレオンは、「彼が生きていれば我々は今日ここにいなかっただろう」と語ったという。11月6日、[[マクデブルク]]の守備隊が降伏し、事実上、国内のプロイセン軍は消滅した。
 
=== アイラウの戦い ===
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7月7日-9日、[[ティルジットの和約]]が締結され、ロシアとプロイセンはフランスと講和、同盟から脱落した。ナポレオンはプロイセンから割譲させた領土に[[ヴェストファーレン王国]]を建国し、弟の[[ジェローム・ボナパルト]]を王に即位させた。さらに、ポーランドを独立させて[[ワルシャワ公国]]を建国した。これによってナポレオンは[[中央ヨーロッパ|中欧]]および[[東ヨーロッパ|東欧]]における覇権を獲得した。
 
この後、大陸封鎖令への参加を拒否したスウェーデンに対し、ナポレオンはロシア国の[[アレクサンドル1世]]と会談し、翌[[1808年]]、[[第二次ロシア・スウェーデン戦争|ロシア・スウェーデン戦争]]を引き起こさせた。これによりナポレオンは[[北ヨーロッパ|北欧]]をも制圧した。
 
==関連項目==