「喜連川藩」の版間の差分

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== 藩史 ==
頼氏は[[関ヶ原の戦い]]([[1600年]])に出陣しなかったが、戦後に[[徳川家康]]に戦勝を祝う使者を派遣したことから{{和暦|1602}}に1000石の加増を受けた。それでも総[[石高]]4500石程度に過ぎず、本来ならば[[大名]]ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし[[江戸幕府]]を開き[[源氏長者]]となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である[[御所号]]許すなどと厚遇した。また[[四品以上に昇進する大名家一覧|四品]]格となり、代々の鎌倉公方が叙任された[[左兵衛督]]や[[左馬頭]]を称した。また足利の名字を名乗らず、喜連川を称した。
 
以後の将軍も代々喜連川家を重んじ、[[享保]]年間には[[大名|諸侯]]扱いとなり10万石という[[国主]]並家格となった。しかし石高が大幅に加増されることはなく、喜連川家は江戸期を通じて表高・実高が1万石に満たなかった唯一の諸侯とされている。他に喜連川藩に許された特例は、参勤交代と諸役の免除があげられる。ただし、参勤交代については毎年12月に自主的に参府していた<ref>『喜連川公方実記』</ref>。