「朝山日乗」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
※[[地下家伝]]によると、[[出雲国]]朝山郷の領主で尼子家臣だった[[朝山慶綱]]の子。
 
荒廃した[[皇居]]の修理費を勧進する念願を上奏し、[[後奈良天皇]]から'''日乗上人'''の号を賜ったという。[[1568年]]([[永禄]]11年)に[[織田信長]]が入京すると、信長に起用されて皇居の仲介者を担当し、その後信長の信頼を受け伊勢国内に領地を与えられた。信長の前で宣教師[[ルイス・フロイス]]らとの宗論に敗れ、以後、[[イエズス会]]から法敵とされた。この時、怒った日乗はたまたま近くに置かれていた刀を抜き、宣教師につきつけて「殺してやるから魂を見せてみろ」と言ったが、周囲にいた信長たちによって止められたという(フロイスの「日本史」より)。また[[キリシタン]]であった[[和田惟政]]を陥れようとして失敗し、[[1573年]](天正元年)頃信長の寵を失って失脚した。
 
子孫は九条家諸大夫となる。