「ループレヒト1世 (プファルツ選帝侯)」の版間の差分

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'''ループレヒト1世'''(Ruprecht I., [[1309年]][[6月9日]] - [[1390年]][[2月16日]])は、[[ライン宮中伯]](在位:[[1353年]] - [[1390年]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]]としては[[1356年]] - 1390年)。[[バイエルン大公|上バイエルン公]]兼ライン宮中伯[[ルドルフ1世 (バイエルン公)|ルドルフ1世]]と[[ローマ王|ドイツ王]][[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]の娘メヒティルドの4男。[[アドルフ (ライン宮中伯)|アドルフ]]、[[ルドルフ2世 (ライン宮中伯)|ルドルフ2世]]の弟。
 
3番目の兄[[ルドルフ2世 (ライン宮中伯)|ルドルフ2世]]の死により[[1353年]]に[[ライン宮中伯]]を継承した。ライン宮中伯は[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の[[金印勅書]]によって1356年に[[神聖ローマ帝国]]の7人の[[選帝侯]]の1人に定められたため、以後はプファルツ選帝侯と呼ばれる。
 
[[1386年]]、[[ハイデルベルク]]に帝国で4番目の大学である[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]を創立した。この大学は、ループレヒトの名を冠した「ループレヒト・カールス大学ハイデルベルク」(Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)が正式な名称である。
 
[[1350年]]にナミュール伯ジャン1世の娘エリーザベト(1330年 - 1382年)と結婚したが、[[1382年]]にエリーザベトに先立たれ、[[1385年]]に[[ベルク公国|ベルク]]公[[ヴィルヘルム2世 (ベルク公)|ヴィルヘルム2世]]の娘ベアトリクス(1360年 - 1395年)と再婚したが、どちらの結婚でも子供は生まれず、1390年に80歳で死去した後、選帝侯位は先々代の宮中伯あった2番目の兄[[アドルフ (ライン宮中伯)|アドルフ]]の子[[ループレヒト2世 (プファルツ選帝侯)|ループレヒト2世]]が継承した。
 
{{先代次代|[[ライン宮中伯]]|1353年 - 1390年<br>(1356年以後は選帝侯)|[[ルドルフ2世 (ライン宮中伯)|ルドルフ2世]]|[[ループレヒト2世 (プファルツ選帝侯)|ループレヒト2世]]}}