「アレクサンドル・メーンシコフ」の版間の差分

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'''アレクサンドル・ダニロヴィチ・メーンシコフ ''' ({{Lang-ru-short|'''Алекса́ндр Дани́лович Ме́ншиков'''}}, {{Lang-en-short}}'''Aleksandr Danilovich Menshikov''', [[1673年]] - [[1729年]]) は、[[ロシア帝国]]の[[政治家]]。
 
貧しい馬丁の子として生まれ、首都近郊の外国人居留地に頻繁に出入りしていた若き[[ピョートル1世]]と出会い、趣味の軍事教練に一兵士として参加し寵臣となる。
メーンシコフは、[[愛人]]だったエカチェリーナ・アレクセーエヴナがピョートル大帝1世に気に入られ皇后となると、たびたび彼女に助けられ
 
メーンシコフは、ピョートル1世の元で[[大北方戦争]]に出陣した。[[1708年]]11月2日に[[コサック]]自治国の首都である[[バトゥールィン]]をメーンシコフが率いるロシア軍によって包囲し、11月13日に守備隊の裏切りによってバトゥールィンに入り、数に勝るロシア軍はコサックを撃破し、バトゥールィンを陥落させた。この時メーンシコフのロシア軍は男女老若を問わず住民全員を殺害し、[[スウェーデン]]と同盟したコサックの咎めるため、殺害された女子の遺体を筏に張り付けて[[セイム川]]で流した。この出来事は研究史では、バトゥールィン悲劇と呼ばれている。
 
[[1725年]]に入り大帝の死期が近くと、新興勢力の筆頭だったメーンシコフは皇后エカチェリーナを推して有力貴族たちと対立した。同年1月28日に大帝が崩御すると、皇后は[[エカチェリーナ1世]]として即位し、メーンシコフが牛耳る[[最高枢密院]]が実権を握った。[[1727年]]に彼女が死去すると12歳の[[ピョートル2世]]を即位させ、メーンシコフの娘マリヤと婚約させた。しかし、有力貴族の反撃によって失脚し娘の婚約は取り消され、それまで築いた莫大な財産を没収され家族そろって僻地に追放された。そのときの疲労から健康を害し追放先で病死した。
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[[Category:1673年生]]
[[Category:1729年没]]
[[Category:大北方戦争]]
[[Category:ロシアの貴族]]
[[Category:ロシア帝国の軍人]]
[[Category:帝政ロシアの政治家]]