「ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク」の版間の差分

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== 生涯 ==
メクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ2世]]とその最初の妻[[アウグステ・ロイス・ツー・シュライツ=ケストリッツ|アウグステ・ロイス・ツー・ケストリッツ]]の間の第5子、四男として[[シュヴェリーン]]に生まれた。ヨハン・アルブレヒトは[[プロイセン]]軍に仕官し、スポーツ愛好家として知られた。彼はまた[[ドイツ植民地帝国]]の拡大にも関心を寄せ、汎ドイツ連盟(Alldeutscher Verband)の共同設立者となり、さらに1895年には[[ドイツ帝国植民地協会同盟]]の会長に就任した。
 
長兄の大公[[フリードリヒ・フランツ3世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ3世]]が1897年に死ぬと、次兄[[パウル・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク|パウル・フリードリヒ]]の摂政位放棄を受け、ヨハン・アルブレヒトが甥の[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]の摂政に就任した。彼はフリードリヒ・フランツ4世が1901年4月9日に親政を宣言するまで摂政の座にあった。