「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」の版間の差分

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{{see also|タプススの戦い|ムンダの戦い}}
 
紀元前47年のうち、1か月をエジプトで過ごしたカエサルは、ローマ内戦の間隙を突くかたちで[[ポントス王国|ポントス]]王[[ファルナケス2世]]がローマ領へ侵攻したのを受けて、カエサルは[[シリア属州]]を経てポントスへ向かい、カエサルはファルナケス2世に[[ゼラの戦い]](現在の[[トルコ共和国]][[ジレ]])で勝利。この際、カエサルはローマの友人へ "Veni, vidi, vici"([[来た、見た、勝った]])という内容の手紙を送っている。ファルナケスは[[ボスポロス王国]]まで退去して、[[スキタイ]]族と[[サルマタイ]]族からなる軍を構成し、いくつかの都市を支配下に置いたが、軍内部の人間によって殺害された(なお、[[アッピアノス]]はファルナケスが戦死したとする一方、[[カッシウス・ディオ]]は捕らえた後に殺されたする)。
 
紀元前47年、カエサルは北アフリカ・[[ウティカ]]に逃れた元老院派の残党を追討するため出発。メテッルス・スキピオらが率いる元老院派およびユバ1世率いるヌミディア連合軍を紀元前46年4月に[[タプススの戦い]]で撃破し、その後メテッルス・スキピオ、アフラニウスらは殺害された。さらにカエサル軍はウティカを攻撃しウティカに籠城していたカトは支えきれずに自殺、ユバも逃亡を図ったが自決してヌミディア王国は断絶した(のちに息子([[ユバ2世]])は[[マウレタニア]]王に即位)。