「牧野忠利」の版間の差分

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享保19年(1734年)9月27日、[[日向国|日向]][[延岡藩]]主・牧野貞通の八男として延岡にて生まれる。ちなみにこの翌日に実父は[[奏者番]]となる。
 
[[延享]]5年6月([[1748年]])、越後長岡藩第6代藩主で長兄である牧野忠敬が嗣子なく死去したため、後を継い。当時[[京都所司代]]藩主あった実父の貞通なり、12月とも従五位下、駿河守[[京都]]叙任する。なお、長岡藩史料の「御附録」では実年齢いた忠利15歳であるが、「内慮あって」17歳で幕府急遽[[江戸]]届け下向しいるので、「[[寛政重修諸家譜]]」では享保178月(1748年)に長岡藩[[1732年江戸藩邸]])出生扱いとなっている。ちなみ17歳は入り、[[末期養子]]が原則許可される最低年齢であるとして、長岡藩主の[[家督]]を相続し藩主となった<br />
同年12月に従五位下、駿河守に叙任する。なお、長岡藩史料の「御附録」では実年齢は15歳であるが、「内慮あって」17歳で幕府に届けているので、「[[寛政重修諸家譜]]」では享保17年([[1732年]])出生扱いとなっている。ちなみに17歳は末期養子が原則許可される最低年齢である。<br />
 
宝暦5年(1755年)7月24日に22歳の若さで他界した。
 
寛延3年([[1750年]])に公式上は[[膳所藩]]主[[本多康桓]]の娘となっている[[牧野忠周]]の長女である茂姫と婚約し、宝暦5年6月23日(1755年)に婚礼となるが同年7月24日に22歳の若さで他界した。
家督は公式上の異母弟(実は忠周実子)である忠寛が継いだ。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の[[済海寺]]。のち[[新潟県]][[長岡市]]の[[悠久山]]に改葬。
 
家督は公式上の異母弟(実は忠周実子、正室茂姫の実弟)である忠寛が継いだ。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の[[済海寺]]。のち[[新潟県]][[長岡市]]の[[悠久山]]に改葬。
 
== 人物 ==