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問題点を解決したIS-85改めIS-1は1943年10月から翌年1月にかけ107輌が生産されたが、中戦車であるT-34-85の量産開始と、85 mm砲ではティーガーの8.8 cm砲の射程外からその装甲を撃ち抜くのは不可能と判明したことから、生産開始わずか15日で火力の更なる増強が決定された。対戦車用としてより強力な100 mm砲S-35を搭載するIS-100もテストされたが、全くの新型であり補給の問題から従来の野砲弾を流用できる122 mm砲A-19が採用され、これは量産型で戦車用に改良されたD-25Tとなった。これはIS-122、改め機密保持(名前から砲の口径がわかってしまう)のためIS-2として量産に入った。ドイツ人はJS(ヨットエス)-122と呼んでおり、ティーガー戦車のエースである[[オットー・カリウス]]が戦後のインタビューでこう呼んでいることから、戦中通しての呼び名ではないかと思われる。しかし85 mm砲に比べ威力こそ大きくなったものの、搭載できる弾薬が28発に激減したことは不評であり、新型の85 mm砲ZIS-S-53に換装された試作車オブイェークト244も作られたが、採用はされなかった。
 
IS-1はKV-85同様に親衛重戦車連隊に実戦配備された。この部隊では、乗員が戦車一輌につき将校二名(戦車長と操縦手)、下士官二名(装填手と砲手)と、階級が高かったが、多くは実戦部隊からではなく戦車学校から直接送りこまれてきた。そのためか[[1944年]]2月、第13親衛戦車連隊のIS-1は[[ウクライナ]]のリスヤンカ村において味方部隊の攻撃支援中、[[V号戦車パンター|V号戦車パンター]]及び[[IV号戦車]]と[[突撃砲]]の待ち伏せを受け、距離600~700 mからの集中砲火で壊滅した。(にもかかわらず、翌日村は赤軍により解放された。)また翌月、同部隊のIS-1は至近距離から2.8 cm重[[対戦車砲|対戦車銃]]Pz.B41([[ゲルリッヒ砲]])に鋳造製の車体前方下部装甲を撃ち抜かれ、後にこの部分には予備履帯が補助装甲として装備されるようになった。そして対戦車砲やティーガー戦車との戦闘で大きな損害を出し、代わりに[[IS-2]]が配備されていった。
 
なお、[[1980年代]]初め頃まで西側の研究者にはIS-2・43年型がIS-1、44年型がIS-2と思われており、85 mm砲搭載型は100 mm砲型同様に数輌の試作のみに終わったと考えられていたが、スティーヴン・ザロガの研究により改められた。(この時44年型はIS-2mと呼ばれたが、後にソ連ではそう呼ばれていないことも判明する。もちろん、戦後改修型のIS-2Mとは別物である。)またその後もIS-1は試作どまりであり、すぐIS-2に生産が移行したとされ実戦参加は無いと思われていたり、また主砲を換装してIS-2に改造されたと思われていたが、ソ連崩壊以降流出した資料により、いろいろな事実や戦歴が明らかになった。