「東福寺」の版間の差分

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東福寺は京都市東山区の東南端、[[伏見区]]と境を接するあたりにある。この地には[[延長 (元号)|延長]]2年(924年)に[[藤原忠平]]によって建てられた[[藤原氏]]の氏寺・[[法性寺]](ほっしょうじ)の巨大な[[伽藍]]があった(法性寺は、[[西日本旅客鉄道|JR]]・[[京阪電気鉄道|京阪]][[東福寺駅]]近くに小寺院として存続している)。[[嘉禎]]2年(1236年)、九条道家([[摂政]]・鎌倉将軍[[藤原頼経]]の父)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は[[奈良]]の[[東大寺]]、[[興福寺]]の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は[[延応]]元年(1239年)から始めて、完成したのは[[建長]]7年(1255年)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は[[元応]]元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている<ref>根立研介「東福寺の彫刻 -南北朝・室町時代の遺品を中心に-」(『MUSEUM』591号)、中央公論事業出版、2004</ref>。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。
 
九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・[[円爾]](えんに、1202-1280)を迎えた。円爾は[[駿河国]](現在の[[静岡県]])の人で、[[嘉禎]]元年(1235年)、宋に渡って[[径山寺|径山(きんざん)興聖万寿禅寺]]の高僧・無準師範(ぶしゅんしばん、1178-1249)に入門。[[印可]](師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て[[仁治]]2年(1241年)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の[[承天寺]]に住したが、同寺が[[天台宗]]徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で[[上洛]]、東福寺の開山に迎えられた。
 
東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、法堂(はっとう、顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは[[文永]]10年(1273年)であった。その後、[[元応]]元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、[[九条家]]、[[鎌倉幕府]]、[[足利家]]、[[徳川家]]などの援助で再建されてきた。[[昭和]]51年(1976年)[[大韓民国|韓国]]の[[全羅南道]][[新安郡]]智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだ[[ジャンク (船)|ジャンク船]]が発見、引き揚げられた([[新安沈船]])が、積荷[[木簡]]の中には「東福寺」「十貫公用」などの字が見られることから、この船は焼失した東福寺の造営料を名目として、鎌倉幕府公認で派遣された唐船([[寺社造営料唐船]])であることが推測されている。近代に入って明治14年(1881年)にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、[[国宝]]の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。