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茶の栽培は栄西が中国から茶の苗木を持ち帰ったのが最初と考えられていたが(<!--それが宇治茶の元となり、-->そこから日本に喫茶の習慣を広めたとされた)、[[空海]]([[806年]]に唐から種子を持ち帰り製法を伝えた)や[[最澄]]も持ち帰り栽培したという記録がある。当初は薬としての用法が主であった([[戦闘|戦場]]で、現在の何倍も濃い濃度の[[抹茶]]を飲んで眠気を覚ましていた、等)が、栽培が普及すると共に[[嗜好品]]として、再び飲まれるようになった。
 
一時(貴族社会の平安時代の遊びとして)中国のように闘茶が行われることもあったが、日本茶道の祖・[[南浦紹明]]により、中国より[[茶道具]]などと共に当時、[[径山寺]]などで盛んに行われていた茶会などの作法が伝わり、次第に場の華やかさより主人と客の精神的交流を重視した独自の[[茶道|茶の湯]]へと発展した。当初は[[武士]]など支配階級で行われた茶の湯だが、[[江戸時代]]に入ると庶民にも広がりをみせるようになる。[[煎茶]]が広く飲まれるようになったのもこの時期である。茶の湯は[[明治時代]]に[[茶道]]と改称され、ついには[[女性]]の[[礼儀作法]]の嗜みとなるまでに一般化した。
 
茶は江戸時代前期では贅沢品として、[[慶安御触書]]でも戒められていたが、やがて有利な現金作物として生産が増えて大いに普及した。生産者にとっては現金収入となる一方で、[[金肥]]といわれた[[干鰯]]や[[油粕]]のような高窒素肥料を購入しなければならなかったので、生産地では農村への[[貨幣経済]]浸透を促した。