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ジョン・ドーソンを調教師とし、エプソムでデビューしたガロピンは、ハイドパークプレート、フェルンヒルS、ニューSと続けざまに快勝し頭角を現していった。この年は5戦4勝でミドルパークプレートにて馬場に脚をとられ生涯唯一の敗戦を経験している。
 
翌年3歳になったガロピンの最初のレースはマッチレースで、ここを8馬身差で圧勝すると唯一クラシック登録を行っていたダービーに向かった。一番人気に押されたこのレースで後続を完封し見事第96代[[ダービー (競馬)|ダービー]]優勝馬に輝いた。こののちニューマーケットダービーで同世代の[[セントレジャーステークス]]優勝馬クレイグミラーを下している。オーナーが心臓病のためこの年で引退し種牡馬となった。
 
== 種牡馬成績 ==
ガロピンは血統が悪く、また強い[[インブリード]]が嫌われたのか種牡馬入り当初はさほど期待されておらず馬主のバッチアニー公の持ち馬との交配ばかりだった。しかしガロピンはこの不利な情勢を跳ね返し1883年には[[2000ギニー]]に勝ったガリアードを送り出した。さらに翌1884年には[[セントサイモン]]が圧倒的なパフォーマンスを見せ着実に大種牡馬の道を歩いていった。1888,89年にはついにリーディングサイアーを獲得したが、翌年には産駒のセントサイモンが僅か2世代のみでリーディングサイアーを奪取、以後7年連続(計9回)のリーディングサイアーになっている。ガロピンはセントサイモンが大成功を収める中1899年に28歳で死亡。死の前年の1898年には高齢ながらセントサイモンを破りリーディングサイアーに返り咲いた。
 
産駒はセントサイモンの他にもガリアードが種牡馬として成功し、ガロピンの直系は大繁栄したが、「セントサイモンの悲劇」の影響で一時イギリス国内で滅亡するに至った。現在[[タップダンスシチー]]、[[プレザントリーパーフェクト]]を初めとした[[リボー]]系等が末裔として残っている。
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=== 代表産駒 ===
* [[セントサイモン]] ([[ゴールドカップ|アスコットゴールドカップ]]、[[グッドウッドカップ]])
* ドノヴァン (ダービー、セントレジャーステークス
* ガリアード (2000ギニー)
* ディスラエリ (2000ギニー)