削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''角隈 石宗'''(つのくま せきそう、<!--[[永正]]16年([[1509年]])-->? - [[天正]]6年([[1578年]][[11月12日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[大友氏]]の家臣。越前守。
 
[[大友義鑑]]に仕え、子供の頃の[[大友義鎮]](当時は大友五郎)に軍学の講師を行う。[[大友義鎮|大友宗麟]]に[[軍配者]]として智謀や兵法、占術に優れたことから宗麟の軍師的存在であった。[[立花道雪]]の[[猶子]]、[[戸次鎮連]]を弟子に持ったという。武田流、小笠原流などの兵法に通じ、気象予測をも得意とし[[1550年]]の[[菊池義武]]の反乱による肥後征伐や豊前平定軍に参加。宣教師の記録には「日本の宗派に精通し、宗麟、義統、すべての家臣から(尊敬を超える)尊崇されている。」と書かれている。また日本側の記録には石宗を「道学兼備の人」と評してあり、「道」とはすなわち礼儀作法や人間の歩むべき人間学のことであり、「学」とは兵法、神仏についての知識、気象学、天文学、易学の知識等を指す。宣教師側も石宗のことを「道理をもって(人に)説く・・・」と道の部分が一致している。他にも「誠に真俗倚頼、文武の達人なり』(大友興廃記より)『性質は篤実にて、大度兼備の功臣なり」(大度とは度胸が大きいこと)(歴代鎮西要略より)とも評されている。気象予測については弟子でなくても人に教えていたようだ。
 
1578年、[[島津氏]]を討伐しようとする宗麟を諌めたが、宗麟は石宗の諫言を聞かずに出陣する。このため石宗は、死の覚悟を決めて自身の書いた兵法書を全て焼き払って出陣し、[[耳川の戦い]]で戦死した。