「糸魚川藩」の版間の差分
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== 藩史 ==
糸魚川は[[北陸道]]と千国街道
元禄12年([[1699年]])、[[本多助芳]]が[[出羽国|出羽]][[村山藩]]より1万石で入る。だが、[[享保]]2年([[1717年]])に助芳は[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]へ移封。
代わって[[越前松平家]]の[[松平直之 (糸魚川藩主)|松平直之]]が1万石で入った。この糸魚川藩の[[福井藩#分家|越前松平家]]は、[[福井藩]]祖
この事態打開のために[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]])に重臣による改革が行なわれたが、この改革は農民からの搾取が主という根本的な解決策が無かったために失敗。そして[[文政]]2年([[1819年]])、遂に郡代・[[黒川九郎治]]の苛酷な御用金徴収に対して領民の怒りが爆発し、[[黒川騒動]]が起こった。おまけに[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航による海防問題によってさらに支出が増大し、財政難はいよいよ深刻なものとなった。
第7代藩主・[[松平茂昭|松平直廉]]は[[安政の大獄]]で家督を追われた[[松平春嶽|松平慶永]]に代わって越前松平家を継ぐこととなる。このため、[[播磨国|播磨]][[明石藩]]から[[松平直静]]が
== 歴代藩主 ==
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# [[松平直益]](なおます)従五位下。日向守。
# [[松平直春]](なおはる)従五位下。日向守。
# [[松平茂昭|松平直廉]](なおきよ)従二位。越前守。
# [[松平直静]](なおやす)従五位下。日向守。
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