「上杉憲盛」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
'''上杉 憲盛'''(うえすぎ のりもり)は、[[日本]]の[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の人物。[[上杉憲賢]]の嫡男で、[[武蔵国]]の[[深谷上杉家]]当主。▼
| 氏名 = 上杉憲盛
| 改名 =
| 諡号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 幕府 =
| 主君 =
| 藩 =
| 兄弟 = '''憲盛'''、[[上杉氏盛|氏盛]]?
| 特記事項 =
}}
▲{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]}}
▲{{武士/生誕|[[享禄]]3年([[1530年]])}}
▲{{武士/死没|[[天正]]3年[[3月28日_(旧暦)|3月28日]]([[1575年]][[5月8日]])}}
▲{{武士/別名|三郎、静徹}}
▲{{武士/官位|[[左兵衛佐]]}}
▲{{武士/氏族|[[上杉氏]]([[藤原氏]])}}
▲{{武士/父母|父:[[上杉憲賢]]、母:未詳}}
▲{{武士/妻|正室:[[太田資顕]]の娘}}
▲{{武士/子|[[上杉氏憲 (深谷上杉氏)|上杉氏憲]]、[[深谷吉次]]、[[成田長忠|成田泰喬]]室}}
== 概要 ==
通称は三郎。のちに静徹と号する。父・憲賢が[[成田長泰]]と結んだ際に姪とされる太田資時の娘(資時の早世後、その弟[[太田資正|資正]]が[[太田氏]]を継いだために母とともに実家に戻っていた)を正室に迎えた。当時の武蔵国は、[[川越夜戦]]で[[扇谷上杉家]]を破った[[後北条氏|小田原北条氏]]が勢力を拡大しており、憲盛は苦境に立たされていた。
== 由良家との抗争 ==
[[山内上杉家]]の[[上杉憲政]]が[[上野国]]を追われると、[[関東管領]]としての[[上杉氏]]の権威も衰退した。周囲が北条氏に下る中、[[岡谷清英]]や[[秋元景朝]]ら重臣の活躍によって深谷城を守り続けるが、やがて憲賢父子も苦渋の決断により北条氏に降伏した。[[永禄]]3年([[1560年]])、父の死とともに憲盛が[[家督]]を継いだ。
父臨終の間際、憲賢危篤の報を手に入れた[[由良成繁]]は、およそ300騎を率いて深谷家の領内に侵入した。憲盛の軍は急な事だったので120騎しか集められず敗退、家督相続間際に北部の領土を一部失った。
== 北条家との抗争 ==
後に、山内上杉氏の家督を継いだ[[上杉謙信|上杉政虎]](謙信)が大軍を率いて関東侵攻を始めると同族の誼でこれに寝返るが、北条氏が勢力を回復すると永禄6年([[1563年]])には再度北条氏に降る。この時、謙信の命を受けた[[成田氏長]](長泰の子)が憲盛の[[深谷城]]を攻撃している。後に氏長が北条氏に降伏すると、娘を氏長の弟・[[成田長忠]]に嫁がせて和解した。憲盛が北条家に降伏したことは謙信の'''関東撤退'''に繋がった。
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憲盛の子孫としては、[[平福藩]]に仕えた[[上杉憲俊]]、[[真田幸定]]の[[舅]]である[[深谷盛定]]、[[江戸時代]]後期に[[大目付]]や[[勘定奉行]]などを務めた[[深谷盛房]]らが確認されている。
== 逸話 ==
[[1573年]]頃、上杉輝虎との会合で輝虎から、憲盛の次男を[[養子]]にくれるよう頼まれたと「深谷記」にあるが、他の資料では確かめられないため信憑性は低い。
{{デフォルトソート:うえすき のりもり}}
[[Category:深谷上杉家|のりもり]]
[[Category:戦国武将
[[Category:戦国大名
[[Category:埼玉県の歴史
[[Category:武蔵国の人物
[[Category:1530年生
[[Category:1575年没
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