「ウルリヒ (ヴュルテンベルク公)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hideki2009 (会話 | 投稿記録)
m ひらがな→カタカナ
編集の要約なし
8行目:
1498年に伯父のヴュルテンベルク公[[エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公)|エーバーハルト2世]]が[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の策謀で廃位された時、わずか11歳だった甥のウルリヒが後継者に指名され、[[1503年]]には公爵としての親政を開始した。ウルリヒは後ろ盾であるマクシミリアン1世につき従い、[[1504年]]には[[バイエルン大公|バイエルン公国]]で起きた[[ランツフート継承戦争]]に参加、[[1508年]]にはマクシミリアン1世による不首尾に終わった[[ローマ]]遠征にも随行した。また[[1513年]]には皇帝軍と一緒に[[フランス王国|フランス]]に侵攻している。一方、ウルリヒは領国ヴュルテンベルクでは非常に不人気な為政者だった。公爵の贅沢のせいで公国では大幅な増税をせねばならず、領民達はウルリヒの強引な税の取り立て方法に不満を募らせていった。[[1514年]]、ついに[[貧民コンラートの乱]]と呼ばれる農民一揆が発生したが、ウルリヒは領邦等族に対して上納金を支払わせる代わりに重要な政治的譲歩をしたため、一揆はすぐに鎮圧された。他方、ウルリヒと[[シュヴァーベン同盟]]との関係もひどく険悪なもので、一揆鎮圧後のウルリヒはシュヴァーベン同盟との抗争に巻き込まれることになる。
 
[[1511年]]、ウルリヒはバイエルン公[[アルブレヒト4世 (バイエルン公)|アルブレヒト4世]]と妃[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]の娘でマクシミリアン1世の姪でもある[[ザビーナ・フォン・バイエルン|ザビーナ]]と結婚した。この結婚は完全な失敗で、ウルリヒはハンス・フォン・フッテン([[ウルリヒ・フォン・フッテン]]の親戚)という騎士の妻を愛人にし、[[1515年]]には口論の末にフッテンを殺害した。フッテンの死はウルリヒに対する臣民達の不満をさらに増幅させた。一方、妻ザビーナは伯父のマクシミリアン1世と弟のバイエルン公[[ヴィルヘルム4世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム4世]]の手助けで暴力を振るう夫の許から逃れようとし、ウルリヒは2度も帝国追放令を受けた。

[[1519年]]7月にマクシミリアン1世が死ぬと、シュヴァーベン同盟はついにウルリヒとの戦争を起こし、ウルリヒをヴュルテンベルクから追放した。同盟はその後、ヴュルテンベルク公国を神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に売却した。ウルリヒに仕えていた騎士[[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン]]はシュヴァーベン同盟と戦うも敗北、[[ハイルブロン]]に監禁され、後にカール5世に仕えた。
 
亡命者となったウルリヒは[[スイス]]、フランス、[[ドイツ]]諸国を放浪する日々を送り、追い剥ぎをしたり、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に仕えたりして暮らした。しかしウルリヒはヴュルテンベルクを奪還する希望を捨ててはおらず、[[1523年]]頃には福音派([[ルーテル教会|ルター派]])に改宗した。復権の機会は[[ドイツ農民戦争]]の発生とともに訪れた。下層階級の味方を装って「貧農ウルリヒ」などと署名をするウルリヒを、かつてウルリヒ自身の課した重税に苦しめられたことなど忘れていた農民達は喜んで迎えた。[[1525年]]2月、フランスやスイスから金と兵士をかき集めたウルリヒはヴュルテンベルクに攻め込んだが、スイス傭兵は[[パヴィアの戦い]]で本来の雇い主であるフランソワ1世が捕虜になったと知ると故国に帰ってしまった。農民軍もまったく当てにならず、ウルリヒは数週間後には撤退、逃亡した。