「細川定禅」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ShellSquid (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目:
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 細川定禅
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[鎌倉時代]]末期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
| 生誕 = 不詳
10 ⟶ 7行目:
| 別名 = 卿律師
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 = [[室町幕府]] [[土佐国|土佐]][[守護]]
| 主君 = [[足利尊氏]]
| 氏族 = [[細川氏]]([[清和源氏]])
| 藩 =
| 氏族 = [[細川氏]]([[清和源氏]])
| 父母 = 父:[[細川頼貞]]
| 兄弟 = [[細川顕氏|顕氏]]、[[細川直俊|直俊]]、'''定禅'''、[[細川皇海|皇海]]
26 ⟶ 20行目:
}}
 
'''細川 定禅'''(ほそかわ じょうぜん、生年不詳 - [[1339年]]([[延元]]4年/[[暦応]]2年)?)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[細川頼貞]]の子で、[[細川顕氏]]の弟に当たる。
 
== 生涯 ==
はじめ[[鶴岡八幡宮|鶴岡]]若宮の別当であったが、兄の顕氏や従兄弟の[[細川和氏]]と共に[[足利尊氏]]に仕えた。[[1335年]]、[[中先代の乱]]では尊氏に従って功績を挙げた。その後、尊氏の命を受けて[[四国]]・[[中国]]の国人衆を糾合し、翌[[1336年]]1月、尊氏の[[京都]]乱入と同時に攻め入り、武功を挙げている。同年2月、顕氏や和氏と共に再び四国に渡海し、同地の諸大名や国人衆を糾合する。5月の[[湊川の戦い]]にも参戦して武功を挙げている。その後も畿内における[[南朝 (日本)|南朝]]勢力と戦って多くの武功を挙げたが、1339年8月の記録を最後に史料から姿を消した。そのため、この時期に死去したとも言われている<ref>「鎌倉・室町人名事典」564P、細川定禅の項。[[小川信]]による執筆。</ref>が定かではない
 
その後も畿内における[[南朝 (日本)|南朝]]勢力と戦って多くの武功を挙げたが、1339年8月の記録を最後に史料から姿を消した。そのため、この時期に死去したとも言われている<ref>「鎌倉・室町人名事典」564P、細川定禅の項。[[小川信]]による執筆。</ref>が定かではない。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references />
 
== 参考文献 ==
*鎌倉・室町人名事典(新人物往来社)
 
[[category{{デフォルトソート:鎌倉時代の武士|ほそかわ しようせん]]}}
[[category:鎌倉時代の武士]]
[[Category:南北朝時代の人物 (日本)|ほそかわ しようせん]]
[[Category:細川氏|しようせん]]