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夫妻の結婚生活は新婚の時期を過ぎると、幸福なものとは言えなくなった。それでもステファニーは1883年9月2日に[[ラクセンブルク宮殿]]で一人娘[[エリーザベト・マリー・ペツネック|エリーザベト・マリー]](1883年 - 1963年)を産んだ。
 
1889年、夫のルドルフ皇太子が[[マイヤーリンク]]で17歳の[[マリー・ヴェッツェラ]]男爵夫人令嬢と一緒に死んでいるのが発見され、しかも二人の死は[[心中|情死]]であると考えられた。ステファニーは皇后となる望みを断たれた上、夫のスキャンダラスな死に方のせいで[[ウィーン]]宮廷からも遠ざかることを余儀なくされた。ステファニーと父レオポルド2世との親子関係も険悪で、彼女は相続財産をめぐり父と法廷で争わねばならなかった。
 
1900年3月22日、ステファニーは[[トリエステ]]の[[ミラマーレ城]]において、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]貴族のローニャイ・エレメール伯爵([[:de:Elemér Lónyay|Elemér Lónyay]])と身分違いの再婚をした。レオポルド2世は娘の再婚を責めたが、オーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]は1917年にローニャイ伯爵を侯爵([[フュルスト]])に陞爵させている。ステファニーはローニャイ伯爵の居城オロスヴァール城(現在の[[スロバキア|スロヴァキア]]領[[ルソフツェ]])で後半生を送った。