「旧川口居留地」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Ash~jawiki (会話 | 投稿記録)
開港の部分少し詳しく
1行目:
'''旧川口居留地'''(きゅうかわぐちきょりゅうち)は、[[1868年]]大阪開港と同時に、[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]川口付近に設けられた[[外国人居留地]]があったエリアをいう
'''旧大阪居留地'''、'''旧大阪川口居留地'''ともいう。居留地時代の建物は現存しないが、[[1920年]]竣工の壮麗な[[大聖堂]]である[[日本聖公会]]大阪[[主教座聖堂]][[川口基督教会]](ウィリアム・ウィルソン設計、国[[登録有形文化財]])が当時の街の面影を伝えている。
[[画像:Kawaguchi Church Osaka JPN 001.jpg|thumb|220px|日本聖公会川口基督教会]]
[[画像:Osaka maritime museum05s3200.jpg|thumb|220px|明治時代の模型(町並み、[[なにわの海の時空館]])]]
[[画像:Osaka maritime museum04s3200.jpg|thumb|150px|明治時代の模型(岸壁、なにわの海の時空館)]]
==歴史==
[[江戸時代]]末期の[[安政五カ国条約]](1858年)によって大坂(大阪は、[[函館市|函館]]・[[新潟市|新潟]]・[[東京]]・[[横浜市|横浜]]・[[神戸市|神戸]]・[[長崎]]と共に開港または開市(外国人に商取引を認めること)されることが決定されていた。時の政府はの時期を引き伸ばし続けてきたがついに1868年、東京・神戸・新潟とともに大阪が・開される。開市は1868年1月(慶応3年12月)、開港は1868年9月(慶応4年7月)のことであった。開港と同時に外国人居留地と定められた川口町26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備される。居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となり、[[1886年]]には人気に応えて10区画の増設が行われた。また、木津川対岸の江之子島にはドームを有する[[洋風建築]]の[[大阪府庁]]本庁舎([[1874年]]-竣工、[[1926年]][[大手前]]へ移転)や[[大阪市役所]]([[1889年]]-竣工、[[1912年]][[堂島]]浜へ移転)が建設される。[[1899年]]に居留地制度は廃止されるが、[[大正時代]]末まで周辺一帯は大阪の行政の中心であり大阪初の電信局、[[洋食]]店、[[中華料理]]店、[[カフェ]]ができ、様々な工業製品や嗜好品がここから大阪市内に広まるなど、[[文明開化]]・近代化の象徴であった。
川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、河口港で水深が浅いため大型船舶が入港出来なかったことによる。そのため、外国人貿易商は良港を有する[[神戸外国人居留地]]へと移住していった。彼らに代わって[[キリスト教]]各派の[[宣教師]]が定住して[[教会堂]]を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。[[平安女学院]]、[[プール学院]]、[[大阪女学院]]、[[桃山学院]]、[[立教学院]]、[[大阪信愛女学院]]といった[[ミッションスクール]]や[[聖バルナバ病院]]等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア([[天王寺区]]・[[阿倍野区]]など)へ次々と移転して川口は衰退への道を辿たどことになる。対照的に大型外国船が集まるようになった[[神戸港]]は、[[1890年代]]には東洋最大の港へと拡大していった。
 
[[1899年]]の居留地廃止後は川口雑居地の[[華僑]](その多くは[[山東省]]出身者)が進出し、[[中華街|中国人街]]となった。昭和の[[第二次世界大戦|戦]]前にはその数は3,000人を超え、洋品店・理髪店・貿易業といった商売を行っていた。しかし、[[日中戦争]]の激化などでその多くは帰国し、[[大阪大空襲]]で焼け野原となった。戦後は華僑は大阪市内各地に拡散し、川口は地味な倉庫街となった。いくつかの古いコンクリート建築、赤煉瓦の[[三井倉庫]]、[[モダニズム建築]]の[[住友倉庫]]本社がある他は、往時の繁栄の面影は残っていない。本田小学校の一隅に「川口居留地跡」の石碑([[1961年]]大阪市建立)がひっそりと立っているのみである。