「トゥグリル・ベグ」の版間の差分

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13-14世紀にアラビア語やペルシア語で書かれたセルジューク朝の歴史書によると、トゥグリルはカリフ・カーイムから与えられた[[人名#イスラム圏の名前|ラカブ]](尊称)とは、「スルターン、宗教の柱、(神の)探究者の父、トゥグリル・ベク・ムハンマド、信徒たちの司令者([[アミール=アル=ムウミニーン|アミール・アル=ムウミニーン]])の右手」(al-Sultan Rukn al-Dīn Abū Ṭalīb Ṭughril Bayk Muḥammad)というものであった。[[人名#イスラム圏の名前|イスム]](トゥグリルなどの個人名、ムハンマドなどのムスリム名)などの前後に「宗教(ディーン)の〜」、「信徒たちの司令者の〜」というラカブが付けられる形式は、このトゥグリル・ベク以降定着していくことになった。
 
さらに当時、勢力を拡大して脅威となっていた[[ブワイフ朝]]や[[シーア派]]を倒して[[小アジア]]から[[トルキスタン]]にかけて広大な支配圏を築き上げた。さらに[[東ローマ帝国]]とも交戦し、アッバース朝のカリフの後見人となってイスラム世界の権威を手にするなど、彼の代にセルジューク朝は大いに栄えたのである
 
1063年、71歳で死去。[[鼻血]]が止まらないという謎の死を遂げた。