「蒔田広孝」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
{{武士/開始|蒔田広孝}}
| 氏名 = 蒔田広孝
{{武士/| 時代| = [[江戸時代]]末期([[幕末]])から - [[大正時代]]}}
{{武士/生誕|[[嘉永]]2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1849年]][[2月26日]])}}
{{武士/死没| 生誕 = [[大正嘉永]]72[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[19181849年]][[322426日]]}}
| 死没 = [[大正]]7年([[1918年]])[[3月24日]]
{{武士/別名|鱗太郎(幼名)}}
| 改名 =
{{武士/戒名|瑞竜院殿祥岳道慶大居士}}
{{武士/| 別名| = 鱗太郎(幼名)}}、広孝
{{武士/墓所|[[東京都]][[豊島区]][[駒込]]の勝林寺}}
| 諡号 =
{{武士/官位|[[相模国|相模]]守}}
{{武士/| 戒名| = 瑞竜院殿祥岳道慶大居士}}
{{武士/藩|[[備中国|備中]][[浅尾藩]]主}}
{{武士/| 墓所| = [[東京都]][[豊島区]][[駒込]]の勝林寺}}
{{武士/氏族|[[蒔田氏]]}}
{{武士/| 官位| = [[相模国|相模]]守}}
{{武士/父母|父:[[蒔田広袢]]、母:[[田沼意清]]の娘<br />養父:''[[蒔田広運]]''}}
| 幕府 = [[江戸幕府]]
{{武士/妻|正室:蒔田広運の娘、継室:[[稲垣長明]]の娘}}
| 主君 =
{{武士/子|養子:''[[蒔田広城]]''}}
{{武士/藩| 藩 = [[備中国|備中]][[浅尾藩]]主}}
{{武士/終了}}
{{武士/| 氏族| = [[蒔田氏]]}}
{{武士/| 父母| = 父:[[蒔田広袢]]、母:[[田沼意清]]の娘<br />養父:''[[蒔田広運]]''}}
| 兄弟 =
{{武士/妻| 妻 = 正室:'''蒔田広運の娘'''、継室:'''[[稲垣長明]]の娘}}'''
{{武士/子| 子 = 養子:''[[蒔田広城]]''}}
| 特記事項 =
}}
 
'''蒔田 広孝'''(まいた ひろたか)は、[[江戸時代]]後期の大名。[[備中国|備中]][[浅尾藩]]主。維新後は[[子爵]]。
 
== 生涯 ==
嘉永2年(1849年)2月4日、幕府御書院番の[[蒔田広袢]]の長男として生まれる。[[安政]]4年([[1857年]])5月に、[[旗本]]([[旗本寄合席|寄合]] 7700石) 蒔田広運の養子となり、安政5年([[1858年]])8月に家督を継いだ。
 
[[文久]]3年([[1863年]])11月、江戸市中警護の功により、高直しによって1万石となって大名となった。[[元治]]元年([[1864年]])の[[蛤御門の変]]においては[[京都見廻役]]として[[長州藩]]撃退に活躍するなど、佐幕派として行動している。
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[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で[[藩知事]]となり、明治4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で免官され、東京へ移った。明治17年([[1884年]])、子爵。明治30年([[1897年]])、第3代[[浅尾村]]長、明治41年([[1908年]])5月には初代[[総社町]]長となる。大正7年(1918年)3月24日に死去。享年70。
 
{{浅尾藩主|蒔田氏||1858 - 1871<1863年までは浅尾領10代当主>}}
 
{{浅尾藩主|蒔田氏||1858-1871<1863年までは浅尾領10代当主>}}
{{DEFAULTSORT:まいた ひろたか}}
[[Category:江戸の大名]]