「トータル・ナショナル・ディフェンス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Stukn (会話 | 投稿記録)
m →‎概要: パルチザン (ユーゴスラビア)
4行目:
 
== 概要 ==
ユーゴスラビアの[[チトー]]は[[1948年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と断絶したが、断絶以前よりスターリンから幾度となく脅迫を受けていた為、ユーゴスラビアの防衛を担うシステムとして考案された。そもそもチトーはユーゴスラビアをパルチザンで解放したため、かかる草の根的抵抗戦略のプロであった。チトーは[[第二次世界大戦]]中の[[対独戦]]においてユーゴスラビアを強行軍で移動した経験から、ユーゴスラビアは山岳国であり防衛に適している事を熟知していた。実際に対独戦において[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]部隊は、地の利を生かして武装抵抗を行っていた。1948年の断絶以降は何時何処から[[ソ連軍]]及び[[ワルシャワ条約機構]]軍が攻めて来てもおかしくはないほどソ連の脅威は増大していた。そこで考案され採用されたのが、'''トータル・ナショナル・ディフェンス(全民衆防衛)'''である。
 
このシステムは文字通り、国民が一体となり国を防衛するシステムであった。[[スイス]]と似た[[民兵]]制度が根幹にあり、高校生以上の国民は全員、侵略してくる敵に対し、武器を取って抵抗する事になっていた。それは'''国民の権利であり、義務'''でもあった。その為、国民の約6割が即座に武器を取って抵抗する事が出来た。実際にユーゴでは、高校生になると実弾射撃訓練を受けて、敵の武器を奪い戦う事も教え込まれた。