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m →‎20世紀から現代: パルチザン (ユーゴスラビア)
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[[第一次世界大戦]]中、イタリアが[[イギリス]]とフランス側について参戦した見返りとして1915年の[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン条約]]で、島はイタリア王国へ属することが約束された。しかし、戦後、コルチュラは(ダルマチアとともに)1918年、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン国]]の一部となった。[[ユーゴスラビア王国|セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]に編入された後、1918年から1921年にイタリア支配を受けた。1939年、[[ザグレブ]]を県都とするクロアチア県(ユーゴスラビア王国の行政区画)の一部となった。
 
1941年からユーゴスラビアを占領した[[枢軸国]]による統治時代、クロアチアの民族団体[[ウスタシャ]]の部隊が、イタリアの[[ファシスト]]政権に対してダルマチア大半とともに島を掌握した。1943年にイタリア=[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]間に停戦が結ばれた後、短期間[[パルチザン (ユーゴスラビア)|ユーゴスラビアの[[パルチザン]]らはこの地方で相当の援助を受けて支配をした。その後コルチュラは[[ナチス・ドイツ]]に占領され、1944年に最終的に解放された。1945年のユーゴスラビア解放とともに、[[ユーゴスラビア連邦人民共和国]]が成立、コルチュラ島は連邦を構成する6つの共和国の1つ、[[クロアチア人民共和国]]に属することとなった。国は1953年に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]に変わった。1991年以後、島は独立したクロアチア共和国の一部となった。
 
== 経済 ==