「スタジオ・システム」の版間の差分

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ある映画史研究家の推計によれば1910年頃のアメリカの映画人口は1000万人とも2000万人ともいわれていた。全米における映画観客数が記録され始めたのは、第1次世界大戦の戦費に充てるため特別税をかけられた1918年からである。1910年代に入ると、[[ハリウッド]]近辺に本格的な映画スタジオが設立された。当時の[[ハリウッド]]の地価は1エーカー(約4000平方メートル)あたり300ドル〜400ドルという格安の値段で、木材の価格も低く、大工の労賃も[[ニューヨーク]]の4分の1から半分で済んだ。天候の荒れることの少ない快適な気候は年中仕事を可能にし、群衆場面のエキストラは1日2〜3ドルで済んだという。目利きの[[映画プロデューサー]]なら、バーベキューと素人に映画製作にかかわらせる喜びを与えるだけで群衆を集めたものだった。ある製作者の弁によると陽の光が絶えず降り注ぎ恰好の照明になり、ニューヨークで撮るより3分の1から半分はコストダウンできる、と記録している。1915年までに[[ハリウッド]]の映画産業は約15000人を正式に雇い入れ、米国の映画製作の60%を占めていた。それが1925年には、ほとんど90%の映画製作をするまでになっていたという。1913年頃には"Movie"という言葉が一般的になり、世界中で映画ファンのための雑誌が創刊され(→[[キネマ旬報]])、映画が産業として根付いてきたことを実証しはじめた。
 
こうして、MPPCという足枷を外した米国映画界は急激に成長を始め、各映画会社も様々な合従連衡を繰り返しながらも、[[ヨーロッパ]]での[[第一次世界大戦]]の影響も受けず、世界最大の映画製作国として、以後質・量共に君臨することになる。この辺の詳細については、各映画会社の項目を参考のこと。しかもこの熾烈な業界内競争の過程で、1920年代後半の[[トーキー]]革命や1930年代の[[世界大恐慌]]も巧みに乗り越えていき、特に「ビッグ5」は製作・配給・公開のあらゆる面において、'''縦の系列化'''(vertical integration、[[ヴァーティカル・インテグレーション (映画用語)]])、すなわちチェーン化が進んだのである。例えば1930年代後半~40年代、MGMの製作した[[ミュージカル]]は、一部の例外を除き、MGMの系列映画館しか上映できなかったのである。
 
==スタジオ・システムの主な特徴==
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*[[アメリカ映画]]
*[[タレント・エージェント]]
*[[ヴァーティカル・インテグレーション (映画用語)]]
*[http://en.wikipedia.org/wiki/Studio_system en:Studio system](現在までの各メジャー・スタジオの経営陣の変遷が詳しい)