「伯爵戦争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
en:Count's Feud 29 June 2010 at 16:28版より推移の節に相当するところを翻訳。それ以外は参考文献をもとに加筆。Battle Boxはda:Grevens Fejde1. september 2010 kl. 03:58.より
 
m編集の要約なし
24行目:
伯爵戦争前夜の北欧の状況を、外交面、内政面、宗教面、経済面から以下に記述していく。
[[ファイル:Stockholm Bloodbath.jpg|300px|left|thumb|ストックホルムの血浴]]
外交面では、[[1397年]]、[[マルグレーテ1世]]の手により[[カルマル同盟]]が結成されると、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの地域はデンマーク王が統べることとなった。しかし、[[エーリク7世_(デンマーク王)|エーリク7世]]の治世下、中央集権化を図るデンマークと自立を目指すスウェーデンの対立が激しくなった。[[クリストファ3世_(デンマーク王)|クリストファ3世]]が後継者を残すことなく死去すると、デンマークの貴族達から構成されるデンマーク王国参事会([[:en:Rigsraadet|en]] / [[:da: Rigsråd|da]])は[[クリスチャン1世_(デンマーク王)|クリスチャン1世]]を選出する一方、スウェーデンの貴族達から構成されるスウェーデン王国参事会は[[オクセンシェルナ|オクセンシェルナ家]]を擁立、双方の対立は激化することとなった。クリスチャン1世、そしてその後継の[[ハンス_(デンマーク王)|ハンス]]は王権強化とカルマル同盟維持のため、スウェーデンへの出兵を繰り返したが芳しい成果をあげられなかった。ハンスの後を襲ったクリスチャン2世は[[1520年]]11月、[[ストックホルム]]攻略に成功したものの反対派を粛清した('''[[ストックホルムの血浴]]''')結果、[[1523年]]には[[グスタフ・ヴァーサ]]の指揮の下、スウェーデンは独立、カルマル同盟は崩壊することとなった<ref>牧野(1999)p(1999) p.42</ref><ref>熊野・牧野・菅原(1999)pp(1999) pp.109-114</ref>。
 
内政面では、デンマークの貴族の選挙により[[オルデンブルク朝|オレンボー朝]]が成立したことから、デンマークの歴代国王は王権拡大が課題となっていった。クリスチャン2世は封建貴族の権力縮小を図るべく、農民や勃興する市民階級と提携しようと図ったものの、スウェーデン独立という外交の失策もあり、1523年にクリスチャン2世は国を追われ、1532年には幽閉されることとなった。そして、クリスチャン2世の廃位に成功した貴族・司教達は彼の叔父に当たる[[フレゼリク1世_(デンマーク王)|フレゼリク1世]]を選出し、フレゼリク1世に対し王権の制限を承認させた<ref>佐保(1999)p(1999) p.54</ref>。
 
宗教面では、[[マルティン・ルター]]が[[1517年]]に[[95ヶ条の論題]]を提出し[[宗教改革]]を実施したことから、[[プロテスタント]]の教えが北欧諸国にも及ぶようになった。[[カトリック]]の司教達はプロテスタントの布教禁止をフレゼリク1世に要求し、フレゼリク1世は表面上、要求を呑んだけれどもが、息子のゴットープ公クリスチャン(後のクリスチャン3世、以下クリスチャン3世と表記)はプロテスタントであり、[[ハンス・タウセン]]([[:en:Hans Tausen|en]])を庇護するなど、プロテスタントを容認していた。そして、[[1526年]]から[[1527年]]にかけてフレゼリク1世は、[[デンマーク国教会]]の実質上の成立ともいえる条件を司教達に認めさせており、デンマーク国内では緩やかながらも宗教改革が進んでいった<ref>熊野・村井・本間・牧野・クリンゲ・佐保(1999)pp(1999) pp.133-134</ref>。
 
経済面では、[[ネーデルラント]]が台頭する一方、ハンザ同盟の頽勢は明らかになっており、ハンザ同盟の盟主である[[リューベック]]は立て直しが課題となっていった。
60行目:
}}
{{see also|:en:Election of Christian III}}
1533年4月、フレゼリク1世の死去に伴い、6月に諸侯会議が開催された。そこで宮廷長官[[モーエンス・ゴイェ]]([[:en:Mogens Gøye|en]])はフレゼリク1世の息子であるゴットープ公クリスチャン(後のクリスチャン3世、以下クリスチャン3世)の即位を主張したが、クリスチャン3世がプロテスタントである以上、カトリックの聖職者たちには容認できるものではなく、モーエンス・ゴイェへの支持も[[マルメ|マルメー]]市長の[[ヨーアン・コック]]([[:da:Jorgen Kock|da]]、プロテスタント)など少数にとどまり、国王決定は延期となった。この頃、ハンザ同盟の再建を試みたリューベックは王国参事会に接近し、デンマークに対しハンザ同盟の特権を認めさせようとしたが、王国参事会は国王不在を理由にリューベックの申し出を拒否、ネーデルラント、 [[シュレースヴィヒ公国|スレースヴィ公国]]、[[ホルシュタイン公国]]との同盟を決めた。その頃、クリスチャン3世の即位を支持していたマルメー市長ヨーアン・コックは貴族独裁政治に反発、リューベック、[[コペンハーゲン]]と図り幽閉されているクリスチャン2世の復位を図り、クリストファ伯に挙兵を促した<ref name=saho54-58>佐保(1999)pp(1999) pp.54-58</ref>。
 
1534年1月、マルメーでは大司教の命により[[ルーテル派|ルター派]]説教師が追放されたことに対し騒乱が発生した。そして4月クリストファ伯はリューベックの傭兵の支援を受け、ホルシュタインを攻撃、コペンハーゲンやマルメーといった都市、[[シェラン島]]や[[スコーネ]]はクリストファ伯の支持に回り、伯爵戦争が勃発した<ref name=saho54-58/>。
71行目:
 
=== Svenstrupの戦い及びオールボーの戦い ===
[[:da:Niels BlockBrock|Niels BlockBrock]]と[[:da:Holger Holgersen Rosenkrantz|Holger Rosenkrantz]]率いる貴族軍は1534年10月16日、Svenstrupの戦い([[:da:Slaget ved Svenstrup|da]])で敗北を喫した。クリスチャン3世は反乱軍に抵抗するためにリューベックと一時の講和を結んだ。
 
その後、クリスチャン3世の部下である[[ヨハン・ランツァウ]]([[:en:Johan Rantzau|en]])率いる王国軍はオールボーまで遥々、農民軍を追いこんだ。船乗りクレメントは農民をオールボーの城砦に避難させた。12月18日、ランツァウの軍隊はオールボーを急襲<ref name=saho54-58/>、少なくとも2千人の農民がこの戦いと戦いの後の略奪で命を落とした。船乗りクレメントは負傷しながらも辛うじて脱出したものの、数日後にはオールボーの東方のStorvordeの農民に発見され、ランツァウに引き渡された。船乗りクレメントはその後、[[ヴィボー]]の裁判所で死刑を宣告され、1536年に死刑が執行された<ref>{{cite web |url=http://graenseforeningen.dk/artikel/3724 |title=Grevens Fejde, borgerkrig 1534-1536
86行目:
伯爵戦争の結果、北欧情勢は以下のように変化していった。
 
外交面・経済面では、ハンザ同盟の衰退は決定的なものとなり、デンマーク、スウェーデンがバルト海、北海の覇権を巡り衝突する端緒となった。両国は16世紀半ば以降、「宿敵(arvefjende)」と呼ぶ形で対峙していくが、クリスチャン3世、グスタフ1世の統治時代は、双方とも国内の基盤強化に追われていたこともあり、両国間で50年の休戦条約が結ばれ、[[北方七年戦争]]が起きるまで北欧には一時の平和が訪れた<ref>佐保(1999)p(1999) p.63</ref>。
 
[[File:Bible of Christian III 1550.jpg|right|thumb|150px|1550年に発行されたデンマーク語版聖書]]
内政面では、クリスチャン3世の指揮の下、デンマークおよびその支配地域(ノルウェー、[[フェロー諸島]]、[[アイスランド]])の宗教改革並びに王権拡大が進められた。クリスチャン3世は、コペンハーゲン入城の1週間後の8月6日にカトリック司教の全員逮捕を決定し、8月12日以降実行していった。その後、10月に聖職者を排した形で貴族・市民・農民による諸侯会議が開催された。そこでは教会領の没収と王領への帰属、貴族特権の維持、即位憲章が承認された。教会領没収と王領への帰属により、王領は国土の約半分を占め戦前の2倍にまで拡大し、伯爵戦争で疲弊した国土復興の財源となった<ref>佐保(1999)pp(1999) pp.58-59</ref>。翌[[1537年]]には、教会法の制定、デンマーク語版聖書の発行と宗教改革が推し進められた<ref>佐保(1999)pp(1999) pp.60-61</ref><ref>熊野・村井・本間・牧野・クリンゲ・佐保(1998)pp(1998) pp.133-134</ref>。
 
即位憲章により、ノルウェーはデンマークの一属州に転落し、デンマーク=ノルウェーの連合王国となり、上からの宗教改革が始まった。フェロー諸島、アイスランドも同様に上からの宗教改革が行われた<ref>佐保(1999)pp(1999) pp.61-63</ref><ref>熊野・村井・本間・牧野・クリンゲ・佐保(1998)pp(1998) pp.135-137</ref>。
 
== 脚注 ==