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'''上杉 憲将'''(うえすぎ のりまさ)は、南北朝・[[室町時代]]の人物、[[武士]]<!--[[守護大名]]{{要出典|date=2010年9月}}-->
 
== 概要 略歴==
[[上杉憲顕]]の子。生母は不明だが、生年からして庶長子と思われる{{要出典|date=2010年9月}}。「上杉系図大概」によれば、憲顕の嫡子。[[興国]]3年/[[康永]]元年([[1342年]])、[[上杉清子]]死去の際は、越後守護として[[南朝 (日本)|南朝]]方と戦い越後を離れられない父の代理として、弔使を勤めた(<ref>「[[上杉家文書]]」『南北朝遺文』関東編1384号)</ref>
 
{{要出典範囲|date=2010年9月|[[1350年]]に越後守護、しかし足利直義を支持したため翌々年に[[罷免]]、[[宇都宮氏綱]]に守護職を奪われた。[[正平 (日本)|正平]]年間は越後各地を転戦していた。[[観応]]年間には越後国内の沙汰を行う}}。[[足利尊氏]]・[[足利直義|直義]]兄弟の争い([[観応の擾乱]])では直義方として活躍、直義方が南朝と和睦すると、[[正平 (日本)|正平]]5年/[[観応]]元年([[1350年]])には越後に入り、[[北朝 (日本)|北朝]]方と戦っている(『越佐史料』巻二ー524)<ref>『三条市史 上巻』120貢。</ref>。正平6年/観応2年(1351年)一月には[[高師冬]]討伐のため、[[甲斐]]へ発向し、師冬を討ちはたした<ref>「醍醐寺報恩院所蔵古文書録乾」、「富士文書」『南北朝遺文』関東編1952、1954号)</ref>。その後は上洛し、直義方に合流している(『新潟県史資料編』604)。直義と尊氏の講和成立後、一旦[[鎌倉]]に戻ったが、直義は憲将に属した将兵の恩賞に、関東分国の闕所を宛てるよう憲顕に命じている(「上杉家文書」)。観応2年9月の上杉憲将遵行書(「長楽寺文書」)より、高師冬にかわり関東の実力者となった父の元、[[武蔵]]守護あるいは代官として父の守護任国である武蔵守護代に在職したとされる<ref>[[佐藤進一]]『室町幕府守護制度の研究–南北朝期諸国沿革考証編 上』(東京大学出版会、1967年、1988年)</ref>。講和破綻後の同年12月、[[駿河国]]由比(薩捶山)で関東に進軍する尊氏軍と戦い敗北した。薩捶山合戦の敗北以後、越後・上野守護職を罷免された父と共に潜伏していたと思われるが、正平10年/[[文和]]4年([[1355年]])、[[宇佐美氏|宇佐美一族]]と共に、越後佐味庄顕法寺城([[吉川町 (新潟県)]](現[[上越市]]))で挙兵した。しかし尊氏方の村山隆直・風間長頼らの侵攻を受け顕法寺城を放棄し、ついで立て篭もった[[柿崎城]]も落ち(『新潟県史資料編』1718)、宇佐美氏・[[柿崎氏]]らを傘下に収めるなど、父憲顕の守護時代から勢力を広げていた国府周辺地域も、一旦は足利方の新守護[[宇都宮氏]]の勢力下に入った<ref>『上越市史通史編2 中世』118頁</ref>。その後憲将らは、ただちに[[信濃]]に転戦し、小笠原高基と戦っている(『越佐史料』巻二ー579)。正平11年/[[延文]]元年([[1356年]])には信濃[[高井郡]]での戦いも記録されている(「[[市河文書]]」)。
 
延文3年/正平13年/延文3年([[1358年]])の足利尊氏死去後、正平16年/[[康安]]元年(1361年)の[[畠山国清]]失脚を受けて、父・憲顕は、越後守護、上野守護、[[関東管領]]に復職し、上杉家の越後・関東における基盤が築かれることとなった。 犬懸[[上杉憲藤]]の嫡子[[上杉朝房|朝房]]に代わり、越後守護領を差配したと推測されている<ref>赤澤計眞『越後上杉氏の研究』(高志書院、1999年)なお、越後国佐味庄の遵行を下達した[[貞治]]3年([[1364年]])7月5日付道昌(上杉憲顕)施行状案(「西大寺文書」)の宛人「兵庫頭殿」には「嫡子守護代」の肩注があり、貞治4年([[1365年]])3月6日の越後国国分寺の遵行の道昌書状案(「醍醐寺文書」)の宛人も兵庫頭憲将となっており、『室幕府守護制度の研究 上』では憲将を越後守護代としている。</ref>が、父に先立ち正平21年/貞治5年死去した。<!--女系ではあるが娘(山吉義盛室)を通して上杉謙信は憲将の子孫に当たる-->
 
==脚注==
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