「フランク・セッジマン」の版間の差分

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テニス4大大会のすべてにおいて、男女シングルス・男女ダブルス・混合ダブルスの3部門に「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成することを、テニス用語では「ボックス・セット」(Boxed Set)という。フランク・セッジマンは[[ケン・マグレガー]]と組んだ男子ダブルス「年間グランドスラム」に加えて、混合ダブルス部門でも[[ドリス・ハート]]と組んで「キャリア・グランドスラム」を達成した。男子ダブルスでは[[ジョン・ブロムウィッチ]]と組んだ優勝もあるが(ブロムウィッチと2勝+マグレガーと7勝=総計9勝)、混合ダブルスで挙げた8勝はすべてハートがパートナーであった。彼が唯一獲得できなかったタイトルは、[[全仏オープン|全仏選手権]]の男子シングルスであった。[[1952年全仏テニス選手権|1952年]]の全仏決勝で敗れた[[ヤロスラフ・ドロブニー]]が、セッジマンの「ボックス・セット」を阻止したのである。
 
[[1952年]]12月29日-31日の[[デビスカップ]]3連覇を最後に「アマチュアテニス選手」の競技から退いたセッジマンは、[[1953年]]から[[ジャック・クレーマー]]の勧めにより「プロテニス選手」に転向した。当時の4大大会は出場資格がアマチュア選手に限定され、プロテニス選手たちには別の大会群があった。前年までの彼の活躍を見ていたオーストラリアのテニスファンたちは、彼のプロ転向を思いとどまらせるための資金提供まで試みたという。プロ選手に転向後、セッジマンは「全米プロテニス選手権」(US Pro)で[[1954年]]のシングルス準優勝や、[[1961年]]のダブルス優勝などの成績を残した。[[1968年]]、テニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施され、セッジマンは[[1970年]]から[[1976年]]まで4大大会にも再挑戦した。40歳代を迎えてからの再挑戦は、[[1971年]]の[[1971年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[1972年]]の[[1972年全豪オープンテニス|全豪オープン]]で3回戦進出がある。[[1976年]]の[[1976年全豪オープンテニス|全豪オープン]]2回戦敗退を現役最後の試合にした時、フランク・セッジマンは48歳であった。[[1979年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
== 4大大会優勝 ==
* [[全豪オープン|全豪選手権]] 男子シングルス:2勝(1949年&1950年)/男子ダブルス:2勝([[1951年]]&1952年)/混合ダブルス:2勝(1949年&1950年)