「ヤッコ・エルティン」の版間の差分

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'''ヤッコ・エルティン'''('''Jacco Eltingh''', [[1970年]][[8月29日]] - )は、[[オランダ]]・[[ヘルダーラント州]]ヘールデ出身の元男子プロ[[テニス]]選手。ダブルスの名手として活躍し、同じ[[オランダ]]の[[ポール・ハーフース]]とペアを組んで、4大大会の男子ダブルス部門ですべてのタイトルを獲得する「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成した。彼らのライバルには[[オーストラリア]]ペアの「ウッディーズ」([[マーク・ウッドフォード]]と[[トッド・ウッドブリッジ]]のこと)がいて、オランダペアの2人と「ウッディーズ」は[[1990年代]]の男子テニス界を代表するダブルスコンビとして数々の名勝負を繰り広げた。[[1996年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子シングルス優勝者になった[[リカルド・クライチェク]]も、同世代のオランダ人選手である。エルティンの自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス1位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス4勝、ダブルス44勝を挙げた。身長187cm、体重80kg、右利き。
 
[[1988年]]にプロ入り。エルティンは[[1991年]]から[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]に挑戦を始め、[[1991年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]初出場でシングルス4回戦に進出し、男子テニスツアーのダブルスで年間4勝を挙げた。[[1992年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[オランダ]]代表選手となり、同年6月に[[イギリス]]・[[マンチェスター]]の大会でシングルス初優勝を果たす。キャリアの最初期はいろいろな選手とダブルスのペアを組んだが、[[1993年]]からエルティンはほとんどの大会で4歳年上の[[ポール・ハーフース]]と組むようになった。[[1993年]]4月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ジョージア州]][[アトランタ]]大会でシングルス2勝目を挙げる。[[1994年]]からエルティン&ハーフース組は世界の頂点を争うコンビになり、[[1994年全豪オープンテニス|全豪オープン]]と[[1994年全米オープンテニス|全米オープン]]で4大大会男子ダブルスの年間2冠を獲得した。2人は全豪オープン決勝で[[バイロン・ブラック]]([[ジンバブエ]])&[[ジョナサン・スターク]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])組を 6-7, 6-3, 6-4, 6-3 で破り、4大大会ダブルス初優勝を飾った。全米オープン決勝では[[マーク・ウッドフォード]]&[[トッド・ウッドブリッジ]]組を 6-3, 7-6 で破り、エルティン&ハーフース組と「ウッディーズ」がダブルスでしのぎを削り始める。ダブルス年間2冠を獲得した[[1994年]]は、シングルスでも年間2勝を挙げ、[[1994年全仏オープンテニス|全仏オープン]]4回戦で[[ウクライナ]]の[[アンドレイ・メドベデフ]]に敗れた。
 
[[1995年]]、エルティンとハーフースは[[1995年全仏オープンテニス|全仏オープン]]男子ダブルス決勝で[[スウェーデン]]ペアの[[マグナス・ラーソン]]&[[ニクラス・クルティ]]組を 6-7, 6-4, 6-1 で破り、3個目の4大大会タイトルを獲得した。[[1995年]]のエルティンはシングルスでも好調で、[[1995年全豪オープンテニス|全豪オープン]]と[[1995年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会でベスト8に入った。これがエルティンの4大大会シングルス自己最高成績である。[[1996年]]、エルティンとハーフースは[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|アトランタ五輪]]の[[オランダ]]代表選手に選ばれた。男子ダブルス準決勝で「ウッディーズ」に 2-6, 7-5, 16-18 で敗れた2人は、準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」でも[[ドイツ]]代表の[[デビッド・プリノジル]]&マルク=ケビン・ゲルナー組に 2-6, 5-7 で敗れ、オランダ代表としての五輪銅メダルを逃した。この後、2人は[[1996年全米オープンテニス|1996年全米オープン]]と[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年ウィンブルドン]]の男子ダブルス決勝でも「ウッディーズ」に敗れる。[[1997年]]のウィンブルドン・ダブルス決勝は、2人には初舞台であったが、この時は[[1993年ウィンブルドン選手権|1993年]]からウィンブルドンの男子ダブルス連続優勝記録を続けていた「ウッディーズ」の5連覇を阻止できなかった。ウィンブルドン・ダブルス準優勝の後、エルティンは地元[[オランダ]]・ロスマレン大会を最後に男子ツアーのシングルスから撤退し、その後は専らダブルスのみで活躍した。
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* [[ジョン・ニューカム]]&[[トニー・ローチ]] (ともに[[オーストラリア]]、[[1965年全豪テニス選手権|1965年]] → [[1967年全米テニス選手権|1967年]])
* [[マーク・ウッドフォード]]&[[トッド・ウッドブリッジ]] (ともに[[オーストラリア]]、[[1992年全豪オープン|1992年]] → [[2000年全仏オープンテニス|2000年]])
* '''ヤッコ・エルティン'''&[[ポール・ハーフース]] (ともに[[オランダ]]、[[1994年全豪オープンテニス|1994年]] → [[1998年ウィンブルドン選手権|1998年]])
* [[ボブ・ブライアン]]&[[マイク・ブライアン]] (ともに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[2003年全仏オープンテニス|2003年]] → [[2006年ウィンブルドン選手権|2006年]])
== 関連項目 ==