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ルイーズ・ブラフの優勝記録は、まだ[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]の戦時中であった[[1942年]]の[[1942年全米テニス選手権|全米選手権]]から始まる。この大会で、ブラフは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに決勝進出を果たしたが、そのうち[[マーガレット・オズボーン・デュポン|マーガレット・オズボーン]]とペアを組んだ女子ダブルスと、[[テッド・シュローダー]]と組んだ混合ダブルスの2部門で初優勝した。女子シングルス決勝では[[ポーリーン・ベッツ]]に 6-4, 1-6, 4-6 の逆転で敗れたため、この大会では3部門制覇を逃している。この年から、ブラフは女子ダブルスで5歳年上の[[マーガレット・オズボーン・デュポン|マーガレット・オズボーン]]とペアを組み、[[1950年全米テニス選手権|1950年]]まで全米選手権の女子ダブルスに「9連覇」を達成した。[[1943年全米テニス選手権|1943年]]の全米選手権でも、ブラフは女子シングルス決勝でベッツに連敗する。第2次世界大戦の戦時中、[[1945年]]まで全米選手権以外のテニス4大大会は開催が中止されていた。
 
[[1945年]]に[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]が終結し、[[1946年]]から[[全仏オープン|全仏選手権]]や[[ウィンブルドン選手権]]も開催が再開された。初出場となった[[1946年]]の[[1946年全仏テニス選手権|全仏選手権]]で、ブラフとオズボーンは女子ダブルスで初優勝を飾る。同年の[[1946年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]において、23歳のブラフは初出場から3部門すべてに決勝進出を果たす。ここでも女子ダブルスと混合ダブルスの2部門で優勝したが、女子シングルス決勝ではまたもや[[ポーリーン・ベッツ]]に 2-6, 4-6 で敗れた。1946年シーズンの終了後、ベッツが「プロ選手宣言」を行ったことにより、それ以後の4大大会出場資格を失う。[[1947年]]、ブラフは[[1947年全米テニス選手権|全米選手権]]の女子シングルス決勝でオズボーンを 8-6, 4-6, 6-1 で破って初優勝を決めたが、ここでは唯一のタイトルとなった。(オズボーンは[[1947年]]に結婚し、夫の姓を併用して「マーガレット・オズボーン・デュポン」と名乗るようになった。)彼女のテニス経歴のハイライトとなったのは、[[1948年ウィンブルドン選手権]]での女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門完全制覇(ハットトリック)である。ブラフにとって、3部門決勝進出は[[1942年全米テニス選手権|1942年全米選手権]]、[[1946年ウィンブルドン選手権]]に続く3度目の出来事で、ウィンブルドンでは2年ぶり2度目であった。この度は(先の2回で落とした)女子シングルス決勝で[[ドリス・ハート]]に 6-3, 8-6 で勝ち、オズボーン・デュポンとの女子ダブルス、[[ジョン・ブロムウィッチ]]との混合ダブルスでも優勝した。ウィンブルドン選手権におけるハットトリックは、かつて[[フランス]]の[[スザンヌ・ランラン]]が[[1920年ウィンブルドン選手権|1920年]]・[[1922年ウィンブルドン選手権|1922年]]・[[1925年ウィンブルドン選手権|1925年]]の3度達成したことがあり、ブラフ以後は[[1967年ウィンブルドン選手権|1967年]]と[[1973年ウィンブルドン選手権|1973年]]の2度達成した[[ビリー・ジーン・キング]]夫人がいる。そのため、ブラフは「ウィンブルドン選手権でハットトリックを達成した3人の女子選手のひとり」に数えられる。この後、ブラフは[[1950年ウィンブルドン選手権|1950年]]までウィンブルドン選手権の女子シングルス3連覇を達成し、1950年ウィンブルドン選手権で自身2度目のハットトリックを達成した。[[1950年]]には、唯一の出場となった[[1950年全豪テニオートラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]で単複2冠獲得もある。
 
ルイーズ・ブラフの全盛時代には、同じ[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の女子選手の中から特定の人たちが優勝を寡占していた。ブラフとオズボーン・デュポンに加えて、[[ドリス・ハート]]、[[モーリーン・コノリー]]、[[シャーリー・フライ]]などが同世代のライバルたちだった。その中でも、コノリーは[[1953年]]に女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」達成者として有名になったが、[[1954年全米テニス選手権|1954年全米選手権]]の開幕直前に落馬事故に見舞われ、ここで選手生命を失う。コノリーの引退後、ブラフは[[1955年]]に[[1955年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の女子シングルスで5年ぶり4度目の優勝を飾った。彼女の選手生活は[[1957年]]まで続き、最後の[[1957年全米テニス選手権|全米選手権]]では女子ダブルスでオズボーン・デュポンとともに3年連続「12度目」の優勝を決めたが、シングルス決勝では[[黒人]]選手の[[アリシア・ギブソン]]に 3-6, 2-6 で完敗し、全米選手権の女子シングルス決勝では「1勝5敗」の戦績に終わった。
 
[[1948年ウィンブルドン選手権|1948年]]と[[1950年ウィンブルドン選手権|1950年]]のウィンブルドン選手権ハットトリック達成に加えて、ルイーズ・ブラフのテニス経歴の中でも際立っているのが、[[マーガレット・オズボーン・デュポン]]とのダブルスである。2人のペアが獲得した[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子ダブルス総計「20勝」([[全仏オープン|全仏選手権]]3勝、[[ウィンブルドン選手権]]5勝、[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]12勝)は、[[マルチナ・ナブラチロワ]]&[[パム・シュライバー]]組と並ぶ女子テニス界歴代1位タイ記録となった。オズボーンと組めなかった唯一の例外は、[[1950年全豪テニオートラリア選手権 (テニス)|1950年全豪選手権]]の女子ダブルスである。オズボーン・デュポンは全豪選手権に1度も出場しなかったため、ブラフは[[ドリス・ハート]]とペアを組み、地元[[オーストラリア]]のベテランペアである[[ナンシー・ウィン・ボルトン]]と[[テルマ・コイン・ロング]]の組を 6-3, 2-6, 6-3 で破って優勝した。(全米選手権でのブラフ&オズボーン組のように)当時の全豪選手権で絶対的な強さを誇ったボルトン&ロング組に、数少ない黒星をつけたペアの1つが、アメリカのブラフ&ハート組であった。
 
選手引退後、ルイーズ・ブラフはA・T・クラップ(A.T. Clapp)と結婚した。その後も時折、40歳以上の女子選手によるシニア・トーナメントに参加することがあった。[[1967年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。