「ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Vigopybot (会話 | 投稿記録)
39行目:
'''ジョン・フィッツジェラルド'''('''John Fitzgerald''', [[1960年]][[12月28日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[南オーストラリア州]]カミンズ出身の元男子プロ[[テニス]]選手。[[1980年代]]から[[1990年代]]前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]で男子ダブルス7勝、混合ダブルス2勝を挙げた。フィッツジェラルドは、男子ダブルスでキャリア・グランドスラム(すべての4大大会で優勝すること)を達成した数少ない選手のひとりである。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス1位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス6勝、ダブルス30勝を挙げた。
 
フィッツジェラルドは[[1979年]]の[[1979年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でプロデビューしたが、男子ダブルス1回戦でいきなり当時の世界最強ペアだった[[ジョン・マッケンロー]]&[[ピーター・フレミング]]組と顔を合わせた。[[1981年]]7月、[[オーストリア]]・[[キッツビュール]]大会で[[ギレルモ・ビラス]]を破ってシングルス初優勝を果たし、翌週の[[スウェーデン]]・バスタッド大会で[[マーク・エドモンドソン]]と組んでダブルス初優勝を飾った。バスタッド大会の決勝戦で顔を合わせた相手ペアの1人、[[アンダース・ヤリード]]とは後にパートナーを組むことになる。[[1982年全豪オープンテニス|1982年全豪オープン]]において、フィッツジェラルドは同じオーストラリアの先輩選手[[ジョン・アレクサンダー]]と組み、ここで最初のグランドスラム・タイトルを獲得した。[[1983年全米オープンテニス|1983年]]から[[1985年全米オープンテニス|1985年]]にかけて、フィッツジェラルドは[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]の混合ダブルスで、[[エリザベス・スマイリー|エリザベス・セイヤーズ]]と組んで3年連続の決勝戦に進出し、[[1983年全米オープンテニス|1983年]]の大会で優勝した。セイヤーズは[[1984年]]11月に結婚して「エリザベス・スマイリー」の名前になる。フィッツジェラルドは通算「6度」4大大会の混合ダブルス決勝に進出したが(優勝2度、準優勝4度)パートナーはすべてスマイリーであった。
 
最初期は[[ジョン・アレクサンダー]]とペアを組むことが多かったフィッツジェラルドだが、[[1984年全米オープンテニス|1984年全米オープン]]の男子ダブルスでは、[[トマシュ・スミッド]](当時[[チェコスロバキア]])との初コンビで優勝した。この大会では、スミッドとの男子ダブルス優勝・セイヤーズとの混合ダブルス準優勝となる。[[1985年ウィンブルドン選手権|1985年ウィンブルドン]]では、フィッツジェラルドは自身2度目の2部門決勝進出を決めたが、ここでは2部門とも準優勝で止まった。[[パット・キャッシュ]]と組んだ男子ダブルスでは、[[ハインツ・ギュンタード]]([[スイス]])&[[バラージュ・タロツィ]]([[ハンガリー]])組に 4-6, 3-6, 6-4, 3-6 で敗れ、[[エリザベス・スマイリー]]との混合ダブルスでも[[ポール・マクナミー]]([[オーストラリア]])&[[マルチナ・ナブラチロワ]]組に 5-7, 6-4, 2-6 で敗れた。[[1986年全仏オープンテニス|1986年全仏オープン]]で、フィッツジェラルドはスミッドと組み、決勝で[[スウェーデン]]ペアの[[ステファン・エドベリ]]&[[アンダース・ヤリード]]組を 3-6, 6-4, 3-6, 7-6, 14-12 で振り切った。全仏ダブルス優勝により、フィッツジェラルドは4大大会の男子ダブルスで3冠王になった。
45行目:
[[1987年]]のフィッツジェラルドは肩の手術のため、単複とも年間未勝利に終わった。[[1988年]]からは、[[アンダース・ヤリード]]と組んで出場した大会で好成績が増え始め、2人は[[1988年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[1988年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の男子ダブルスで準優勝したが、まだフィッツジェラルドの最後の目標であるウィンブルドン初優勝には届かなかった。そしてついに、[[1989年ウィンブルドン選手権|1989年ウィンブルドン]]の男子ダブルス決勝で、フィッツジェラルドとヤリードは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ペアの[[リック・リーチ]]&[[ジム・ピュー]]組を 3-6, 7-6, 6-4, 7-6 で破って初優勝を飾った。こうして、ジョン・フィッツジェラルドの男子ダブルス「キャリア・グランドスラム」が完成した。しばらく途切れていた[[エリザベス・スマイリー]]との混合ダブルスも復活し、2人は[[1990年ウィンブルドン選手権|1990年ウィンブルドン]]で5年ぶりにペアを組んだ。
 
[[1991年]]、ジョン・フィッツジェラルドとアンダース・ヤリードはダブルスで年間6勝を挙げ、[[1991年全仏オープンテニス|全仏オープン]]・[[1991年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]・[[1991年全米オープンテニス|全米オープン]]で4大大会3連勝を達成した。年頭の[[1991年全豪オープン|全豪オープン]]だけは、2人は3回戦で敗退している。[[1991年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]ではスマイリーとの混合ダブルスでも初優勝を飾り、自身初の2部門制覇を成し遂げた。しかし、フィッツジェラルドとヤリードは[[1992年全豪オープン|1992年全豪オープン]]で3回戦敗退に終わり、4大大会ダブルス4連勝を逃してしまう。[[1993年全豪オープン|1993年全豪オープン]]では、このコンビで決勝に進み、フィッツジェラルドにとっては[[ジョン・アレクサンダー]]と組んだ[[1982年全豪オープンテニス|1982年]]以来「11年ぶり」2度目の全豪決勝の舞台に立ったが、ここでも準優勝に終わった。結局、フィッツジェラルドは「アンダース・ヤリードとの同一ペアによる」キャリア・グランドスラムを果たせなかった。
 
フィッツジェラルドは[[日本]]でプレーした回数も多く、[[1988年]]の「[[セイコー・スーパー・テニス]]」で[[ボリス・ベッカー]]に敗れた準優勝がある。[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]の男子ダブルスでは、[[1988年]]に[[ヨハン・クリーク]]と組んで優勝し、[[1991年]]と[[1995年]]の2度[[アンダース・ヤリード]]と組んで準優勝した。[[1995年全米オープンテニス|1995年全米オープン]]の男子ダブルス3回戦敗退を最後に、フィッツジェラルドは第一線から退いたが、現役最後の試合は[[1997年全豪オープン|1997年全豪オープン]]男子ダブルス1回戦で、パートナーは[[オーストラリア]]の後輩選手[[パトリック・ラフター]]であった。