「ヤッコ・エルティン」の版間の差分

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[[1995年]]、エルティンとハーフースは[[1995年全仏オープンテニス|全仏オープン]]男子ダブルス決勝で[[スウェーデン]]ペアの[[マグナス・ラーソン]]&[[ニクラス・クルティ]]組を 6-7, 6-4, 6-1 で破り、3個目の4大大会タイトルを獲得した。[[1995年]]のエルティンはシングルスでも好調で、[[1995年全豪オープン|全豪オープン]]と[[1995年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会でベスト8に入った。これがエルティンの4大大会シングルス自己最高成績である。[[1996年]]、エルティンとハーフースは[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|アトランタ五輪]]の[[オランダ]]代表選手に選ばれた。男子ダブルス準決勝で「ウッディーズ」に 2-6, 7-5, 16-18 で敗れた2人は、準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」でも[[ドイツ]]代表の[[デビッド・プリノジル]]&マルク=ケビン・ゲルナー組に 2-6, 5-7 で敗れ、オランダ代表としての五輪銅メダルを逃した。この後、2人は[[1996年全米オープンテニス|1996年全米オープン]]と[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年ウィンブルドン]]の男子ダブルス決勝でも「ウッディーズ」に敗れる。[[1997年]]のウィンブルドン・ダブルス決勝は、2人には初舞台であったが、この時は[[1993年ウィンブルドン選手権|1993年]]からウィンブルドンの男子ダブルス連続優勝記録を続けていた「ウッディーズ」の5連覇を阻止できなかった。ウィンブルドン・ダブルス準優勝の後、エルティンは地元[[オランダ]]・ロスマレン大会を最後に男子ツアーのシングルスから撤退し、その後は専らダブルスのみで活躍した。
 
[[1998年]]、ヤッコ・エルティンは[[1998年全豪オープンテニス|全豪オープン]]・[[1998年全仏オープンテニス|全仏オープン]]・[[1998年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で4大大会男子ダブルス「3連勝」を成し遂げ、ツアーで年間「10勝」を獲得した。[[1998年全豪オープンテニス|全豪オープン]]だけは、パートナーはハーフースではなく、[[スウェーデン]]の[[ヨナス・ビョークマン]]と組んで地元[[オーストラリア]]の「ウッディーズ」を 6-2, 5-7, 2-6, 6-4, 6-3 で破って優勝している。[[1998年全仏オープンテニス|全仏オープン]]では、エルティンとハーフースは[[ダニエル・ネスター]]([[カナダ]])&[[マーク・ノールズ]]([[バハマ]])組を 6-3, 3-6, 6-3 で破り、3年ぶり2度目の優勝を果たす。そしてついに、2人は[[1998年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルスで初優勝を飾り、男子テニス史上4組目の「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成した。エルティンとハーフースは、2年連続2度目のウィンブルドン決勝で[[マーク・ウッドフォード]]と[[トッド・ウッドブリッジ]]を 2-6, 6-4, 7-6, 5-7, 10-8 で破り、4時間5分の激戦の末に「ウッディーズ」のウィンブルドン・ダブルス6連覇を阻止した。ところが、2人は4大大会年間最終戦の[[1998年全米オープンテニス|全米オープン]]に出場できなくなり、ここでエルティンの男子ダブルス「年間グランドスラム」のチャンスが消えてしまう。年末の男子ツアー最終戦「ATPツアー選手権」(現在の名称は「[[テニス・マスターズ・カップ]]」)で、2人は全仏決勝で破った[[ダニエル・ネスター]]&[[マーク・ノールズ]]組を 6-4, 6-2, 7-5 で破り、5年ぶり2度目の優勝で有終の美を飾った。エルティンは[[1998年]]のシーズンを最後に、28歳で現役を引退した。
== 4大大会ダブルス優勝 ==
* [[全豪オープン]]:2勝(1994年、1998年)