「長岡山の戦い」の版間の差分

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==戦いの経緯==
[[町田老之丞]]、[[立見鑑三郎]]の率いる桑名本隊は、8月25日、[[塩川]]を出発した、福島城にいた[[桑名藩]]主[[松平定敬]]に会うために、[[米沢]]に向かおうとしたが、米沢藩が峠を厳重に警備していたので、変更して[[福島城]]に向かい、27日に[[大塩]]と[[檜原]]に分宿した。9月9日に[[土湯峠]]を越えて、11日夜福島城下につくと、藩主には一歩違いで会えなかった。
9月18日朝、米沢兵を先鋒とした西軍が鶴岡城攻略のために出発した。9月20日に朝を迎えた。その日は、濃霧が町覆っていた。桑名藩と庄内藩は朝ごはんの最中に、新政府軍に急襲された。
 
福島城で、庄内藩士[[中村七郎右衛門]]隊と再開して合流する。共に、新政府軍と戦うために庄内藩の領地に向かって13日に福島を出発する。笹谷峠を越えて、16日に山形城に着く。さらに、山形街道を北上して、寒河江に着く。庄内藩は三番、五番銃隊、桑名隊は[[神風隊]]を[[左沢]](西村山郡[[大江町]][[左沢]])に分遣して、寒河江に桑名藩のうち、[[雷神隊]]、[[致人隊]]の二隊が残った。4小隊合計約300人が寒河江に宿営していた。
土地勘がある庄内藩は、すぐに西北の長岡山に引き上げた。そして、桑名藩も兵を引きあげた。霧が晴れると再び猛攻が始まり防衛線を展開するが、旧幕府軍は新政府軍の包囲網を突破して、北の白岩方面に脱出する。そして、庄内藩の領内に進んだ。
 
一方、9月18日朝、米沢兵を先鋒とした西軍が鶴岡城攻略のために出発した。9月20日に朝を迎えた。その日は、濃霧が町覆って視界不良の状態であった。桑名藩と庄内藩は朝ごはんの最中に、新政府軍に急襲された。
 
土地勘がある庄内藩は、すぐに西北の[[長岡山]]に引き上げた。そして、桑名藩は立見鑑三郎の指揮で沼川沿いに陣を敷いたが、圧倒的な新政府軍の攻撃に損害が増加し、霧の中で唯一見える長岡山に兵を引きあげた。そして、庄内隊と桑名隊が合流して、守備戦線を築く。霧が晴れると再び猛攻が始まり防衛戦を展開するが、午後になると新政府軍に包囲される。旧幕府軍は新政府軍の包囲網を突破して、北の白岩方面に脱出する。ここで、左沢にいた桑名藩の神風隊が援軍に到着して、寒河江川をはさんで、2時間ほど銃撃戦を展開した。しかし、退路を断たれることを恐れて、[[銅山越]]の山道を通り、夜間行軍で[[肘折温泉]]に引き上げ、庄内藩の領内に逃れた。
 
9月19日に庄内藩はすべての前線を引き払って、本国への撤収命令を出していたが、寒河江にいた隊には、指令が届かなかった結果起こった戦闘である。
 
==参考文献==