「ジョルジュ・ギヌメール」の版間の差分

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== 生い立ち ==
1894年12月24日、フランスの[[パリ]]に生まれる。ギヌメール家は軍人の名門で、父はポール・ギヌメール。イヴォンヌとオデットという2人の姉がいる。生まれつき病弱のため少年期は学校へ通うことができず、兵役にも2回はねられている。
 
== 戦歴 ==
[[1914年]]航空隊に入隊。当初は整備兵として配属された。
[[1915年]]6月、第3飛行中隊(MS.3)に配属される。MSの略号は、当時この部隊が[[モラーヌ・ソルニエ]]機装備であったことを示す。ギヌメールは翌月、[[モラーヌ・ソルニエ L]]型機で最初の戦果を挙げた。この時ギヌメールが搭乗していた機体は、マケドニア戦線に転属した飛行士シャルル・ボナールが以前に使っていたもので、ボナールは機体に自らの使用機であることを示すため"Vieux Charles"(“老シャルル”)と書き入れていた。"Vieux"とあるのは、ボナールより若い同名の整備員がいたためと言われる。ギヌメールは験を担ぎ、その後、機体を乗り換えてもこの名と、機番「2」を記入し続けた。
 
1915年12月、部隊は[[ニューポール]]機に機種改変され、N.3と改称された(当初[[ニューポール10]]、後に[[ニューポール 11|11]]、[[ニューポール 17|17]])。より運動性の優れた戦闘機に乗り換えたことでギヌメールはスコアを伸ばし、[[1916年]]2月に撃墜数が5機とエースになり、1916年末には撃墜数が25機になった。1916年に、ギヌメールに最新鋭機[[S.VII (航空機)|スパッドS.VII]]の初期量産機が優先的に与えられた。後に部隊全体も[[スパッド]]機装備となり、Spa.3となった。
[[Image:SPAD VII Guynemer Le Bourget 01.JPG|thumb|left|250px|ル・ブールジェに展示されている、ギヌメールが使用した数機のスパッドS.VIIのうちの1機。排気管の下に"Vieux Charles"の名、胴体に部隊章のコウノトリと機番2が記入されている]]
 
[[1917年]]には大尉になり、コウノトリ部隊の指揮者になった。1917年7月末にはフランスで最初の50機を撃墜したパイロットになった。
 
1917年6月6日、後のドイツ2位のエースである[[エルンスト・ウーデット]]機と1対1の戦いを繰り広げたが、ウーデット機の機関銃が故障したのを見て、ギヌメールは手を引いた(ギヌメールの機銃も故障したためとの説もある)。この出来事は映画「華麗なる飛行機野郎」でも語られるシーンがある。
 
常に連合国トップエースであったギヌメールにはすでに与えられる勲章もなくなり、戦死をおそれた軍部は再三後方勤務を薦めたが、彼は軍人である父に「全力を尽くしていないのなら何もしないのと同じです」と語り、きっぱり転属を断った。