「三瀬諸淵」の版間の差分

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[[安政]]3年([[1856年]])、二宮の師であった[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]が再来日した際には[[二宮敬作]]によってシーボルトに預けられた。シーボルトの秘書兼長男のアレクサンダー・フォン・シーボルト<ref>後にイギリス公使館の通弁官、徳川昭武らのパリ万国博覧会通訳、日本の外交顧問となる/アレクサンダー・フォン・シーボルト</ref> の家庭教師役を務めながら、自身は[[医学]]を学んだ。この間の安政5年([[1858年]])に大洲に一時帰郷した諸淵は日本で最初の「[[電信]]」の実験を行い成功させている。
 
[[文久]]2年([[1862年]])になると、{{要出典範囲|諸淵がシーボルトのために国学の知識を生かして、日本の[[歴史書]]の[[翻訳]]をおこなっていた事が発覚|date=2008年12月}}、投獄される。しかし、後世書かれた妻・[[楠本高子|高子]]の手記<ref>[http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/metaka.html 山脇たか(楠本高子)が語る自分のこと]、シーボルト記念館、2008年8月30日閲覧。</ref>によると、通訳の件を関して公の役人を差しおいたことが一因であるという。2年後の1864年に出獄している。
 
釈放後、大洲に帰国するが、そのまま[[大洲藩]]に召される事になる。後に[[江戸幕府]]によって[[大坂]]に召されるが、[[明治維新]]を迎えると、そのまま新政府に仕えて医学校の創設にあたる。