「サライ (都市)」の版間の差分

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ジョチ・ウルスの支配層は[[イスラム教]]を受け入れるようになったが、住民の信教には寛容であり、様々な宗教施設が建設された。新サライの時期の[[1261年]]、[[正教会|正教]]の[[主教]]たちがサライに[[教会]]を建設したが、[[大オルダ]]<ref>ジョチ家当主の政権で、一族の諸政権を束ねた中央政権(1243年 - 1502年)。</ref>の分裂が進む[[1454年]]に[[モスクワ]]近郊に移り、クルティツィ(Krutitsy)修道院を築いた。[[イブン=バットゥータ]]は[[14世紀]]前半にジョチ・ウルスとその首都サライ(おそらく新サライ)を訪れ、その壮麗さと広大さ、人口の多さと他民族ぶりに驚き、アラブ・ペルシャ・ロシア・ギリシア・イタリア諸都市など各地からの商人でにぎわうさまや、[[キリスト教]]や[[イスラム教]]の広がりを伝えている。[[ウズベク・ハン]](在位[[1312年]] - [[1340年]])の時代にはサライには西洋やイスラムの影響を受けた壮麗な建築物が建設され、ジョチ・ウルスとともに全盛期を迎えた。[[モスクワ]]や[[トヴェリ]]などルーシ諸公は度々サライを訪れて貢納を行い、ジョチ・ウルスへの臣従を誓った。ルーシ諸国は[[モンゴルのルーシ侵攻]]以後、ジョチ・ウルスへの服従とサライへの貢納を強制されていた。15世紀末まで200年以上にわたって続くモンゴルによる支配をロシア史では「[[タタールのくびき]]」と呼ぶ。
 
新旧のサライのほか、ジョチ家第12代当主[[ジャーニー・ベク]](在位[[1342年]] - [[1357年]])は[[カザフスタン]]最西部の[[アティラウ州]]周辺に遷都し、'''[[サライ・チク]]'''(小サライ、Saray-Jük, Saraychyq)という都市を築いている<ref>http://www.littera.waseda.ac.jp/faculty/akasaka/zousho/bkkki12.html</ref>。後の[[ノガイ・オルダ]]はこのサライ・チクを首都にしている
 
バトゥ・サライ(旧サライ)やベルケ・サライ(新サライ)はたびたび破壊されている。[[ティムール]]は[[1395年]]、征服途上でサライ(おそらく新サライ)を破壊した。[[クリミア・ハン国]]の[[メングリ1世ギレイ]]は[[1502年]]にサライ(おそらく新サライ)を破壊し、大オルダを滅ぼした。サライの最後の破壊は[[1556年]]、[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン4世]]が[[アストラハン・ハン国]]を征服した後であった。