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兄が[[安釐王]]として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えた。
 
== 略歴 ==
=== 魏の公子と食客 ===
ある時、安釐王と[[囲碁]]([[双六]]との説もある)を打っていた所、[[趙 (戦国)|趙]]との国境から[[烽火]]が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけのことです」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと分かっていたのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。
 
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秦の宰相・[[范雎]]に恨みを買っていたため、首を狙われて趙の[[平原君]]の元に逃れていた魏の元宰相・魏斉が、秦から趙への圧力が高まるに及んで、信陵君を頼り帰国しようとした。信陵君は災いを恐れしばらく迷ったが、食客の一言を聞き、受け入れることにした。しかしその間に魏斉は自刎していたため、この首を塩漬けにして趙へ送った。
 
=== 趙への援軍 ===
[[紀元前258年]]、[[長平の戦い]]にて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都[[邯鄲市|邯鄲]]を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して援軍を出すことは出したが、そこで秦から「最早、趙の滅亡は時間の問題。もし援軍すれば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は平原君の妻になっていたので信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の[[食客]]数百名を率いて自ら救援に行こうとした。
 
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趙に滞在中、信陵君は[[博徒]]の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公と会うため自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君はそのような者を相手にするのか」と馬鹿にした。これに対して信陵君は「その博徒と味噌屋は魏に居た時から賢人と聞いていた程の人。世情の煩わしさを嫌い、その身分に自らあるだけ。平原君は外面だけを飾り立てる虚名の士のようだ」と喝破し、このような人の近くには居たくないと国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るから趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達は「信陵君は身分に関係なく才を処遇してくださる。そういう人に使ってもらいたい」と、その内半数が平原君の下を去って信陵君の下に集まったと言う。
 
=== 帰国 ===
[[紀元前248年]]、信陵君のいない魏では連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとしなかったが、毛公と薛公に「今日の貴方があるのは魏のお陰であり、その恩を忘れこの危機を見て見ぬ振りをするのは不義です」と諌められて魏へ帰国する。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会し、信陵君は将軍として五ヶ国の軍をまとめて秦の[[蒙驁]]([[蒙恬]]の祖父)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが伺える。そして連合軍はついに[[函谷関]]に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。
 
=== 失脚 ===
函谷関にまで攻め寄せられ秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと思った秦は考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、[[紀元前244年]]に過度の飲酒のために死去した。なお、子孫の滅亡についての記述が無いのは、戦国四君でも信陵君だけである。
 
==死後==