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[[Image:Temple Of Bell (inner-court) Palmyra Syria 2005.jpg|250px|thumb|パルミラ遺跡]]
'''セプティミウス・オダエナトゥス'''(
== 生涯 ==
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[[259年]]に[[エデッサの戦い]]で[[サーサーン朝]]が[[ウァレリアヌス]]帝を捕虜とした時期にオダエナトゥスは既に[[シリア属州]]を中心としたローマ東方属州における有力者となっており、当初は[[シャープール1世]]とも交渉した形跡がある。
ウァレリアヌスの後継としてその息子
その生涯において、オダエナトゥスがローマ帝国から独立して王位に就くことは無かったものの、ローマ自体が北方異民族の侵入や西方属州の割拠([[ガリア帝国]])により危機的状態にあったため、事実上はオダエナトゥスもローマとは一線を画した半独立状態にあった。
[[267年]]、オダエナトゥスは[[ゴート族]]討伐の出征前の宴席で甥[[マエオニウス]]([[:en:Maeonius|en]]) により[[暗殺]]された。同時に息子ヘロデ
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