「ニコライ・ミャスコフスキー」の版間の差分

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翌1941年の《[[交響曲第22番 (ミャスコフスキー)|交響曲 第22番 ロ短調「バラード」]]》は、一部は[[第二次世界大戦]]の最初の数年間に着想されたのかもしれない。また同年には、プロコフィエフや[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]らとともに、[[カバルダ・バルカル共和国|カバルディノ=バルカリア]]地方に疎開している。こういうわけで、プロコフィエフの《[[弦楽四重奏曲第2番 (プロコフィエフ)|弦楽四重奏曲 第2番]]》やミャスコフスキー自身の《[[交響曲第23番 (ミャスコフスキー)|交響曲 第23番]]》および《[[弦楽四重奏曲第7番 (ミャスコフスキー)|弦楽四重奏曲第7番]]》に、揃ってカバルダ[[民謡]]が利用されたのである。
 
この頃に作曲されたソナタ楽章を含む作品群(交響曲や四重奏曲など)は、《交響曲 第24番》、《ピアノのためのソナチネ》、《弦楽四重奏曲 第9番》がある。これらは響きや作曲様式において[[ロマン派音楽|ロマン主義]]的であり、その直接の影響は[[和声法]]や展開に如実に現れている。最後の2つの弦楽四重奏曲に認められるように、ミャスコフスキーは、じりじりとした神経症的な[[スケルツォ]]を、臆することなく書いている(最後の出版作品となった《[[弦楽四重奏曲第13番 (ミャスコフスキー)|弦楽四重奏曲第13番]]》のスケルツォは変幻自在で、ほとんど[[キアロスクーロ]]画法のように対比付けられている)。《チェロ協奏曲》やロストロポーヴィチに献呈された《チェロ・ソナタ第2番》の場合に当てはまるように、全般的に切り詰められた手段によって、直接的でかなり濃密な表現が可能となっている。そこでは、スクリャービンや[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]が発想源でありえたような初期作品と同等の、実験的なものを喚起すべくもない
 
そこでは、スクリャービンや[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]が発想源でありえたような初期作品と同等の、実験的なものが喚起されてはならない。このような後期様式に何かしら一長一短があるのもやむを得まい。無論このようなことになったのは、部分的にであれ全体的にであれ、「[[ジダーノフ批判]]」のような攻撃をひらりとかわす必要があったからであろう。勿論かわしようのあるはずもなく、もう一度攻撃された末、ようやく没年に、それも没後に名誉回復された。ジダーノフ批判後の最晩年の作品はそれ以前にも増して保守的、復古的なものとならざるを得なかった。
 
[[1950年]]に逝去。40年もの長きにわたって出版された、作品番号にして87の楽曲を後世に残した。生前6度にわたって[[ソビエト連邦国家賞|スターリン賞]]を受賞しており、この賞の獲得回数においてミャスコフスキーをしのぐ作曲家はいない。