「近藤勇」の版間の差分

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鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は[[甲陽鎮撫隊]]として隊を再編し[[甲府]]へ出陣したが、[[甲州勝沼の戦い]]で新政府軍に敗れて敗走し、その際、意見の対立から[[永倉新八]]、[[原田左之助]]らが離別する。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の[[東京都]][[足立区]][[綾瀬 (足立区)|綾瀬四丁目]])で募集し、4月には[[下総国]]流山(現在の[[千葉県]][[流山市]])に屯集するが、[[香川敬三]]率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の[[埼玉県]][[越谷市]])の政府軍本営に出頭する。
 
しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた[[板橋宿]]まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった[[加納鷲雄]]に近藤であると看破され、捕縛された。その後、[[土佐藩]]([[谷干城]])と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの[[板橋刑場]](現在の[[東京都]][[板橋区]][[板橋 (板橋区)|板橋]]および[[北区 (東京都)|北区]]滝野川付近)で斬首された。享年35(満33歳没)。首は板橋{{要出典|date=2009年4月}}と大坂の千日前{{要出典|date=2009年4月}}、京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。
 
== 墓所 ==