「レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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==生涯==
父の生前の[[1654年]]、後継者に決められていた兄・[[ローマ王]][[フェルディナント4世 (ローマ王)|フェルディナント4世]]が死去したため、新たに後継者となる。1655年にハンガリー王に即位し、父が死去した翌年の1658年に神聖ローマ皇帝として即位した。この間の混乱によって神聖ローマ皇帝の位は1年あまり空位となり、フランス王[[ルイ14世]]が帝位を狙ったものの、[[選帝侯]]達の反対にあって失敗している。平和を愛する人物であり、周辺諸国との協調を図ったが、皮肉にもそれを弱腰と見られて[[1661年]]から[[オスマン帝国]]に攻められることとなる。[[1664年]]に一旦これを撃退することに成功したが、[[1682年]]から再びオスマンの侵攻を受ける。しかも翌年には、オスマンと手を結んだハンガリー大貴族の離反によって、[[ウィーン]]を包囲されるに至ってしまった([[第二次ウィーン包囲]])。
 
しかしこの包囲戦は[[ポーランド王国]]の軍事的支援の結果、撃退させることに成功した。この戦いはオスマン帝国の衰退を意味すると同時に、1国だけでは侵攻を撃退させることが出来ないほど、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の弱体ぶりを露呈させてしまう事態となった。しかし[[1699年]]に[[カルロヴィッツ条約]]を結んで、オスマン帝国からハンガリー王国の大部分([[オスマン帝国領ハンガリー]]及び[[トランシルヴァニア公国]])を奪回することに成功した(トランシルヴァニア公国はそれ以前にハプスブルク家の宗主下に入っていた)。これによってハプスブルク家は、[[18世紀]]を目前にして、大国復興の足がかりを築くことが出来たのである。