「戴季陶」の版間の差分

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トホホ川 (会話 | 投稿記録)
しまあじ (会話 | 投稿記録)
{{要出典範囲}}が貼られた日時:2010年10月26日21:49(UTC)、堂々と「憶測」と書くくらいなら無用ではないかとも思われ
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[[1928年]]10月に国民政府の考試院院長になる。その後国共内戦によって国民党が中国大陸から追われるまで、国民党の文教政策の重鎮であった。少数民族政策に注意を払い、ボーイ・スカウトをつくり、仏教信者でもあったためインドに関心を持ち、[[ガンディー]]や[[ジャワハルラール・ネルー|ネール]]とも交渉があった。
 
{{要出典範囲|[[1949年]]広州での死は、睡眠薬による自殺といわれる。中国共産党政権に追いつめられたというより、国民党の腐敗に対する絶望のためではないかと憶測できる。|date=2010年10月}}
 
== 戴季陶の日本観 ==