「伊達宗純」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
8行目:
性格は驕慢であったと言われ、吉田藩立藩の経緯からして多事に富んでいる。3万石分知の経緯については諸説ある。秀宗は宗純を寵愛しており、父[[伊達政宗]]が没するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知した、と一般に言われているものの、一方では二人の兄が相次ぎ早逝するなかで世継ぎとなった兄の[[伊達宗利]](秀宗三男)を妬んだ宗純が、[[仙台藩]]分家の[[伊達宗勝]](政宗十男で秀宗の弟)と共謀し秀宗の遺言書を偽造したとも言われている。この分知以降、宇和島宗家と対立する。
 
ある年、宗純が病に倒れた際、医者として吉田藩領内に滞在していた[[土佐藩]]浪人・[[山田仲左衛門]]は宗純を診療、全快させた。仲左衛門は文武に通じ、宗純は仲左衛門に100石を知行、後に200石に加増し重用した。仲左衛門は宗純を説き、財政政策として高禄の譜代重臣の改易を繰り返させたため、仲左衛門と譜代勢力が激しく対立し家中は動揺した。遂には仲左衛門の暗殺未遂、更には本家[[仙台藩]]への直訴へと発展し、仲左衛門は仙台藩へお預けとなった([[山田騒動]])。この騒動の事後処理に宇和島藩が関っており、宇和島藩と和解するに至った。一説ではこの騒動を好機として本家宇和島藩は吉田藩への干渉を強めたとされる
 
[[伊達騒動]]においては流罪となった[[伊達宗興]]の正室、子供を預かった。