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[[Image:Jutsusai Hayashi.jpg|林述斎像 伝[[谷文晁]]筆 [[江戸時代]]後期|thumb|250px]]
'''林 述斎'''(はやし じゅっさい、[[明和]]5年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[1768年]][[8月5日]]) - [[天保]]12年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1841年]][[8月30日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[儒学者]]。[[林家 (儒学者)|林家]]8代。父は[[美濃国]][[岩村藩]]主[[松平乗薀]](まつだいらのりもり)。[[諱]]は初め乗衡(のりひら)、後に衡(たいら)。字は熊蔵・叔紞・徳詮。号は述斎・蕉軒・蕉隠など。晩年は大内記と称す。
 
[[渋井太室]]らに師事。[[寛政]]5年([[1793年]])、[[林信敬錦峯]]の養子となって[[林家 (儒者)|林家]]を継ぎ、[[江戸幕府|幕府]]の文書行政の中枢として幕政に関与する。[[文化 (元号)|文化]]度の[[朝鮮通信使]]の応接を[[対馬国]]で行う聘礼の改革にもかかわった。[[柴野栗山]]・[[古賀精里]]・[[尾藤二洲]]([[寛政の三博士]])らと[[儒学]]の教学の刷新にも力を尽くし、[[昌平坂学問所]](昌平黌)の幕府直轄化を推進した([[寛政の改革]])。また、[[朱子学]]を基礎としつつ、中国[[清]]朝の[[考証学]]に関心を示し、「[[寛政重修諸家譜]]」「[[徳川実紀]]」「[[朝野旧聞裒藁]](ちょうやきゅうもんほうこう)」「[[新編武蔵風土記稿]]」など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集「家園漫吟」などがある。中国で散逸した漢籍を集めた「佚存叢書」は中国でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。
 
著名な門弟に[[佐藤一斎]](同じ岩村藩出身で同志)・[[松崎慊堂]]がいる。
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== 関連項目 ==
*[[林家 (儒学者)]]
*[[林羅山]] 林家の始祖
*[[林鵞峰]] 林羅山の三男・林家2代
*[[林鳳岡]] 林鵞峰の次男・林家3代
*[[林榴岡]] 林鳳岡の子・林家4代
*[[林鳳池]] 鳳谷の兄・林榴岡の長男
*[[林鳳谷]] 鳳潭の祖父・林家5代
*[[林龍潭]] 鳳谷の子・林鳳潭の父
*[[林鳳潭]] 鳳谷の孫・林家6代
*[[林錦峯]] 林家7代。
*[[林檉宇]] 述斎の長男・林家9代。
*[[林壮軒]] 檉宇の長男・林家10代。
*[[林復斎]] 林述斎の6男・林家11代
 
{{先代次代|[[林家 (儒学者)|林家]]|1793~18418代:1793 - 1841|[[林錦峯]]|[[林檉宇]]}}
 
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