「ディミトリエ・カンテミール」の版間の差分

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[[タタール]]系の血を引くモルダヴィア貴族([[ボヤール]] [[:en:boyar|boiari]])[[カンテミール家]]の出身で、父[[コンスタンティン・カンテミール]]と兄[[アンティオフ・カンテミール]]はモルダヴィア公を務めた有力者であった。ディミトリエはモルダヴィアの[[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]]で言語、文学、歴史の教育を受けた後、[[1688年]]から22年間を[[イスタンブル]]で過ごした。イスタンブルではスルタン・[[アフメト2世]]に才能を愛され、東洋の諸言語と文化、音楽を学んだ。
 
1710年、兄アンティオフの跡を継いでモルダヴィア公に任命されイスタンブルを離れるが、翌1711年に始まったロシアとオスマン帝国の戦争においてオスマン帝国を裏切り、ロシアの[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]に降伏した。しかし、この戦争はピョートルの大敗に終わり([[プルート川の戦い]])、モルダヴィアを含めた占領地はオスマン帝国に奪還されてしまったため、カンテミールはロシアに亡命生活を余儀なくされた。カンテミールはロシア貴族の待遇を受けて(公爵・宮廷顧問官)余生を送り、1723年に[[ハリコフ]]で亡くなった。
 
最初の妻カッサンドラ・カンタクゼネとの間に二男一女が、2番目の妻[[アナスタシヤ・トルベツカヤ]]との間に一女があった。
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ディミトリエ・カンテミールは語学の才能に優れ、[[ルーマニア語]]のほか、[[ラテン語]]、[[ギリシャ語]]、[[トルコ語]]、[[アラビア語]]、[[ペルシア語]]、[[ロシア語]]、[[スロヴェニア語]]、[[ハンガリー語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[イタリア語]]を完全に習得していたと言われる。カンテミールは諸学問に通じ、故国モルダヴィア・ルーマニアに関する歴史書、地理誌、哲学書など多くの著作を残した。
 
東洋の歴史と文化に対する造詣も深く、カンテミールの著作の中でももっとも有名なものはラテン語で著され、西欧に紹介された最初の体系的なオスマン帝国にかんする歴史書となった『オスマン帝国の勃興と衰退』である。同書はモスクワに移ってから書かれたが、[[1734年]]に英語、[[1743年]]にフランス語に訳され、西欧に広く紹介された。[[トルコ音楽|オスマン古典音楽]]の作曲者としても知られる。40曲ほどの作品がある。[[アラビア文字]]を利用した独特の文字楽譜によって約40の自作曲を含む、350余りの器楽曲を採譜した『文字による音楽の知識の書』をトルコ語([[オスマン語]])で著してスルタンに献呈した。彼の考案した文字譜は画期的なものだったがトルコにおいて広まることはなかった。
 
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