「山吉氏」の版間の差分

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<!--[[三浦氏]]流を名乗る場合もあるが、それは三浦氏族[[佐原氏]]から[[婿養子]]が入った[[家系]]であるため、後世に[[男系]][[系図]]として伝わったものと思われる。-->
越後[[守護代]][[長尾氏]]の配下として、三条城(島之城)に拠って勢力を築き、蒲原[[郡代]]として活躍した。
 
 
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山吉氏の確実な史料の初見は、[[長尾邦景]]の時代にあたる[[応永]]29年([[1422年]])[[山吉行盛]]が郡司として奥山庄の[[黒川氏]]に下した「山吉行盛直状」(『新潟県史資料編』1312号)であるが、すでにこの頃、管轄領域は蒲原郡のみならず、瀬波郡([[岩船郡]])にも及んでいた。[[応永の乱 (越後国)]]では[[山吉久盛]]が三条島之城で[[長尾邦景]]方として戦っており、当時かなりの軍事基盤をもつ領主となっていたと推測される。邦景・[[長尾実景|実景]]父子が実権を握っていた[[文永]]3年([[1446年]])まで史料上確認できる久盛以後、[[長尾能景]]時代の[[延徳]]4年([[1492年]])に山吉四郎右兵衛尉正綱が現れるまで、山吉氏は史料に全く現れず、その動向ははっきりしない。しかし、守護上杉氏と守護代長尾氏の対立の中で邦景父子が没落し、新たな守護代長尾氏が成立する中でも、蒲原郡代の地位と権限は失うことはなかった。[[永正の乱]]や亨禄・天文の乱では[[山吉能盛]]や[[山吉政久]]が[[長尾為景]]について活躍している。
 
[[上杉謙信|長尾景虎]][[上杉謙信入道]])の時代には、山吉豊守は謙信の側近として諸大名との外交折衝などに活躍した。この頃になると、蒲原郡内の広範囲に一族を配置したり、土豪層の被官化が進められている。彼らは「三条衆」と呼ばれ、[[天正]]3年([[1175年]])の「上杉家軍役帳」では豊守は謙信政権下、最大の軍事力を誇っていた。豊守を継いだ[[山吉景長|景長]]になって上杉家の家法により領地半減の上に三条城を失い[[木場城]]へ移った。上杉氏が[[会津]]を経て、[[出羽国]]米沢([[山形県]][[米沢市]])に移封されるとそれに従い、以後[[江戸時代]]は[[出羽国]][[米沢藩]]士として連綿と続いた。
 
== 一族 ==