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楚を守った包胥の功績に対して、昭王は封邑五千戸の大封を与えようとしたが、包胥は楚に先祖の墳墓があったので、それを守ったにすぎないとして辞退した。
 
=== 越王への進言 ===
時は下って[[紀元前473年]]、申包胥は恵王の母の父に当たる[[越]]王[[勾践]]の元へ使者として来朝する。この次期は越が呉を滅ぼす最終段階に入っており、申包胥は勾践から呉を倒す為の諮問を受ける。いくつかの問答を交わした後、申包胥は「戦は知を第一とし、仁が第二、勇が第三です。」との進言を勾践に送る。これが決定打の一つとなり、勾践は呉を滅ぼすことに成功する。申包胥は祖国を蹂躙し、親友の伍子胥を用済みとして抹殺した仇敵の呉を滅ぼす一助を成したのである。
 
== 参考文献 ==