「フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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オーストリア・[[ハプスブルク家]]に生まれる。[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]の弟[[カール2世 (オーストリア大公)|カール2世]]大公の子であり、[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]、[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]兄弟の従弟に当たる。幼少から[[イエズス会]]の教育を受けたことから、[[カトリック教会|カトリック]]の保守、拡大に努力する。皇帝即位前にはシュタイアーマルク公であったが、領国で[[プロテスタント]]の反乱が起こるかも知れない状況にも関わらず、[[1618年]]の[[プラハ窓外投擲事件]]を受け[[ボヘミア]]へ派兵した。
 
[[1620年]]にはカトリック連盟の雄、[[バイエルン大公|バイエルン公]](のち[[選帝侯]])[[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン1世]]と協力し、[[白山の戦い]]で[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス|ティリー伯]]指揮下の連合軍による勝利を現出し、ボヘミアの新教勢力に大打撃を与える。しかし、北方から[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]][[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスティアン4世]]の侵入を受け、急遽フリートラント侯[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン|ヴァレンシュタイン]]を召喚し軍を編成、これを撃破したものの、その後ヴァレンシュタインの解任と、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]][[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の侵入による再召喚で醜態を見せる。[[1634年]]にヴァレンシュタインが新教徒と和平工作をしていると報告を受けた皇帝は、暗殺命令を下して実行させた。これによって旧教軍の足並みが乱れ、新教軍の大反撃を呼び込んだのである。
 
晩年には[[スペイン]]を参入させ、一時スウェーデン軍を破らせるが、主導権を奪い返す事は出来なかった。さらに同じ旧教徒である[[フランス王国|フランス]]の介入も許した。[[1635年]]にドイツ諸侯と交わした[[プラハ条約_(1635年)|プラハ条約]]は、結局、何の効力もなかった。その後は[[スウェーデン]]軍の跳梁を許し、同じカトリックのフランスにも敗れるなど失態を重ね、戦局を打開できないまま、1637年に死去。息子の[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]が後を継いだ。