「ヴィンチェンツォ・チマッティ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Trinity50 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Trinity50 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
2行目:
'''ヴィンチェンツォ・チマッティ'''(Vincenzo Cimatti, [[1879年]][[7月15日]] - [[1965年]][[10月16日]])は[[イタリア]]中央部[[ファエンツァ]]出身の[[サレジオ会]]士・教育者。
 
[[1879年]]イタリア中央部[[ラヴェンナ]]市近郊の町[[ファエンツァ]]に生まれる。[[1896年]][[トリノ]]市郊外にあるサレジオ会の名門[[リセ]]、[[:it:Liceo_Salesiano_Valsalice|ヴァルサリチェ]]に入学。[[1900年]]王立[[パルマ]][[音楽大学]]を卒業し、王立[[トリノ大学]]で[[自然科学]]と[[哲学]]の博士号を取得。[[1905年]]3月に[[司祭]]に任ぜられ、母校ヴァルサリチェの[[校長]]、[[修道院]]長を務めた。[[1926年]]2月に[[宣教師]]団長として来日。[[九州]]地方において宣教活動に従事した。[[1933年]][[宮崎市]]内に小[[神学校]]を設立。[[1935年]]には[[宮崎県|宮崎]]、[[大分県|大分]]両県の[[教区長]]、[[1937年]]サレジオ会日本管区長となる。多くの日本人[[司祭]]や[[修道士]]を育成し、日本における宣教活動や日伊文化交流に尽くした功績に対して、[[1956年]]に[[イタリア共和国|イタリア政府]]から[[イタリア共和国功労勲章|共和国功労勲章]]を、また[[1963年]]には優れた音楽家、聖職者として[[日本政府]]から[[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]を贈られた。オペラ『[[細川ガラシャ|細川ガラシア]]』などの作曲でも知られる。1965年死去。その後列福・列聖調査が開始され、により英雄的聖徳によりが認められ、[[1991年]]、ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]によって尊者(聖人から3番目の地位)」に宣言された。
 
== 外部リンク ==