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[[fr:Égalité]]
[[pl:Równość_(polityka_i_socjologia)]]
平等は、「平ら」で「等しい」と書く。
つまり、なにかが同じである状態を指している。
では、なにが同じなのか?
本当に平等は状態とは、個人が自分の意思で何かをしようとしたときや、意志にもとづいて行動しようとしたとき、それをその個人の偶有性によるものによって否定されることがない状態だと考える。
まず、偶有性とは、その人の意思とは関係のないもののこと。つまり、性別、人種、出身、病気、障害などである。
これらは、自己責任ではない。セルフコントロールできないものなのである。
たとえば、ある個人の意思が、その人が男性であるということを理由に否定されたり、また女性であることを理由にその人が判断されたりしたとき、それは平等ではないといえる。
そのような偶有性によって責めることを、差別と呼ぶ。
その人が男であることはその人が自ら望んだ結果ではないのにも関わらず、それを理由に判断されるようなことである。
これは、カテゴリ化による偏見と見てもよい。
その時、そこに、個人の意思はない。個人は存在せず、偶有性によるカテゴリ化の結果、その人を見てしまう。
その人が何を思い、何を好み、何を考えているのか、そのような視点は一切ない。
では、偶有性ではないものとは何なのか?
偶有性の対義語は、本質性である。
これらは、その人の自己責任によるもの、セルフコントロールできるもののことである。
この本質性をもとに、つまり、この目の前の個人が何をどう考えているのかをふまえたうえで、その人を判断しようとしたとき、それは差別ではない。
そして、この視点が、いかなる人々にも存在し、互いをその本質性によって捉えることができたとき、それは平等な状態であると言える。
つまり、「平等」とは、その個人という視点の存在が、何人にも「同じ」なのである。
 
 
しかし、なぜ偶有性の対義語が本質性なのか。
ここには、隠れた意味が存在すると思う。
つまりそれは、その人の本質は偶有性以外の部分にこそ存在するということだと思う。
その人の本質を知りたければ、性別や出身などその人の偶有性の部分ではなく、その人が何を思い、何に責任を持っているのかということを見なければならないことを、指しているのだと思う。