「太政官奏」の版間の差分

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官奏の内容は、[[不堪佃田]]や[[不動倉]]開用など、地方行政において中央の判断を仰ぐ必要のある重要な申請を中心に数通から十通が勅裁にかけられた。だが、次第に儀礼的なものとなり、重要性が低下していった。それでも、[[除目]]と並んで天皇の大権行為の象徴として扱われ、かつてのような諸国よりの重要な申請に関する官奏も稀に行われた。[[長和]]4年([[1015年]])に[[三条天皇]]の眼病悪化に伴う[[藤原道長]]の[[准摂政]]就任のきっかけは、天皇の眼病による官奏の中断による地方行政の停滞に[[国司]]達が動揺したのがきっかけであったとされている(『[[小右記]]』)。
 
平安貴族にとって有職故実や作法に則って儀式や公事を滞りなく勤めることは重要視され、特に天皇の御前で行われる即位式や官奏・節会などの儀式における参仕者の振舞いは注目された。特に内奏の職事公卿や節会の内弁の行動の成否はその後の本人の政治的立場にも影響を与え、それは他の貴族にとっても他人事ではなかった。そのため、官奏が行われる時には官奏に関わらない大臣以下の公卿・官人なども儀式の妨げにならない物陰から、その様子を「見物」して後日の参考とすることも珍しくは無かった。<ref>末松剛「宮廷儀式における公卿の〈見物〉」『平安宮廷の儀礼文化』(吉川弘文館、2010年)ISBN 978-4-642-02475-4 所収)</ref>。
 
== 脚注 ==